「転移を生きる」を考えるための素材ーー『夢,夢見ること』松木邦裕・藤山直樹から

今回は『夢,夢見ること』松木邦裕・藤山直樹著から「転移を生きる」という臨床技法を理解するための覚書。

藤山先生によるdreamingの解説
  • ビオンの夢見ることは無意識的に考えること, dreamingはthinkingと同じ。無意識にunconsciousにthinkするということ。
  • ウィニコットにとって,空想と現実の間を行き来するような部分が遊ぶことであり,それが夢見ることである。
  • Thinkingとは物を考えて,意味を付けてパーソナルでシンボリックな意味を付与して,こころが貯蔵したり,後でそこから学んだりできるような形にしていくことである。そして,生きているということは,パーソナルな意味を生成して,この世の中で自分らしく自分の考えをもって生きるということ。
  • dreamingを通じて,そこで起こっている「生のもの」を考えること,意味をパーソナライズするということができないと,私たちは「物自体」の世界に閉じ込められてしまう。
藤山先生による精神分析家の仕事
  • 被分析者は,ベータ要素・生の感覚体験・考えられず排出するしかない考え,考えられない考えを抱えていて,これをthinkingできるものにしていくことが精神分析である。
  • 投影同一化というメカニズムによって排出される生のもの,考えられないthoughtを個人が内側で「考える」ことができるようになるのを手伝うのが精神分析である。
  • 患者と共に二人で夢見られていなかった夢を夢見ることができるようになること。
  • 精神分析とはふたりで非対象的な夢見をすること,私たちは患者を夢見る,そのために自分自身の一部についても夢見る必要がある。
  • メルツァーは「分析家はセッション中にいくぶんLOSTである」と書いており,私たちはいくぶん我を忘れ,クリアでない意識状態の中にある,それは論理的にそこにあるものを分節化することとはいくぶん離れた心の状態である。
  • わけのわからなさ,非分節的で曖昧で不可知であるという感触を抱きながら,患者とそこにいて,驚きや慄きや切なさや恐ろしさを体験すること。
  • 転移解釈は,患者の対象世界のあれこれに私たちを「あてはめる」という能動的な知的な作業(中略),転移解釈をしようと意識的に集中すると(中略)夢見ることを邪魔する。
  • 夢見ることはできてもまだ分節的には考えられない,そうした情緒との接触の体験そのものにじゅうぶん開かれている時間がとても重要。
  • 「知らない」ことに開かれていること,患者との接触に圧倒されることを自分に許すこと,精神分析技法や理論を「忘れる」自由を持っていること,そうした全体が(中略)精神分析の伝統の中に「生きて」留まることを可能にする
松木先生によるdreamingの解説
  • フロイトは「無意識的な覚醒的思考をもって,被分析者の無意識に共鳴する」と言っている。ビオンは「覚醒して夢見ること」,「もの想いのなかで夢作業アルファを作動させる」と言っている。
  • つまり,アナライザンドの症状,夢,転移に表される無意識の思考を理解するためには,無意識的に考えること(=夢見ること)を実践する,つまり,覚醒していて夢見ること(もの想いの中で夢作業アルファを作動させること)が大事。
  • 分析の場では,私たちは被分析者が語る夢を聴きながら,夢を共に夢見,生きて存在することになり,それを「さらにより成熟した思考にする」という作業,つまり解釈をする。
  • セッションにおいては,投影されている対象と同化して,その対象が感じる気持ちを感じる,クライエントの夢の中の備品でいる,
    その一方で,外部から夢を見ておののく自分を維持しておくこと,
    同床同夢を味わいながら,どこかに同床異夢の自分を持っておくことが必要
現時点での「転移を生きる」の私の理解

本書の藤山先生のセッションの提示にはいかに先生がセッションの中で覚醒しながら夢見をしていることが描かれていた。無意識の中に漂いながら生のものを感じるということ,これがもの想いというものなのかと,それが言語化されていることが印象深かった。

また松木・藤山両先生の夢見ることについての解説を総合してみると,患者にはまだ考えることができず,排出された生の感覚体験に触れ,投影同一化に巻き込まれ,セラピストの中に湧き起こる感情というのが,夢を見るため,つまり精神分析を遂行していく上でセラピストに必須の要素である。

つまり,投影同一化に巻き込まれつつ(同床同夢の状態で),それを分節化し,俯瞰で捉えられる自分がいる(同床異夢)ということが今の時点での「転移を生きる」についての理解である。つまり,生々しい自分の中に湧き起こる感情とそれを俯瞰で見る自分との間を絶え間なく往来することが転移を生きることのようだ。