R.ケイパー著「臨床的事実とは何か?ーー精神分析技法論への寄与」

R.ケイパー著の『米国クライン派の臨床ーー自分自身のこころ』に収録されている「臨床的事実とは何か?ーー精神分析技法論への寄与」を読んで,気になったところを抜粋。本論でケーパーは,臨床的事実とは何か,つまり治療者―患者間で得られたものが精神分析を通して得られた事実であると見なせるかどうかの基準は何なのかということについて説明している。

臨床的(精神分析的)事実であることの基準

ケイパーは,セッションの中で得た理解が精神分析的に事実であるということの基準として,つまりそこで精神分析がなされているということの基準は「セッションにおいて誰が誰で,誰が何をしているのかについての明瞭さと悲しみとからなるある組み合わせという情緒的付置」であると提案している。

随分と分かりづらい書き方だと思うが,かみ砕いてみると,
①治療者に対して患者がどのような内的対象を投影して,一体何をしているのかという転移状況を理解し,それに納得がいってすっきりするという明瞭さを感じること,同時に
②その転移状況を引き起こしているのは他ならない自分であるということに対して,孤立,そして悲しみや不安を感じるということ,
これらの情緒的付置が生じるときに,手にした理解が分析的事実である,と言えると主張している。

親密な関係内での孤立

またケイパーは,ビオンも「精神分析の要素」の中で分析ははく奪の雰囲気の中で行わなければならず・・・分析家も被分析者も親密な関係内での孤立の感覚を決して失ってはならない」と書いていることに触れ,精神分析的事実を手にするには,二人の関係性において自分が果たしている役割に気づく,つまり孤立を感じること,そして分離した個人間での接触からしか生まれてこない親密さがそこには必要であると説明している。

面接,そしてあらゆるところに散見される一見矛盾する事象

面接は「共に考える」空間であり,互いの情緒的接触がそこで為されなければならない。共に考える二つの心がそこにあるが,その中で患者は分離,ひとり…を感じることが必要であり,二人,でもひとりという一見矛盾するものを体験することが重要であるということであろう。
個が個として自立していない状態で二人でいるときに,ビオンの言う共生的 symbiotic ,または寄生的 parasitic 関係に陥ってしまう。共存的 commensal 関係でいるためには分離とひとり…を感じることが必須なのだろう。
こうした,二人でいるけれどひとり,ひとりでいるけれど二人,というような一見分かりづらい状態は,精神分析や人の中にはよく見られることだる十も思う。自由連想において「自由」に頭にあることを「すべて」述べよ,もそうであるし,人は死に向かって生きているということ,愛しているけれど憎しみの対象でもある母親,知っているけれど知らない,知らないけれど知っているという意識と無意識の関係。こうした一見相対立するような考え方ができるようにならなければ,肉体と魂をもって生まれた人間の生活に適応していくのはかなり難しいように思う。

明瞭性と悲しみ,不安の先に

二人でいながらにして,ひとりであることを感知し,そのことに悲しみや不安を感じつつ,そこから逃げずにそれを受容する,何とも切ない作業である。万能な母親も自分もいないことを知るPSポジションからDポジションへの移行を思わせる。
そして,ケイパーが言う精神分析的事実の基準とする心的付置が現れる前提として,人が知らなければならない「世界がどのように見えているかはすべて自分の内的世界の投影であるという事実」,これを知ることは面接に現れる人にとっては殊更に受け入れ難く,悲しいことだと思われるし,自分もどこまでこれを知的水準ではなく,情緒的に完全に受け入れているかと言えば,難しいところである。
しかしながら,面接に現れる人たちがこのことを僅かにでも受け入れることができれば,そこには変化の可能性と希望が生まれるように思う。

最後に

精神分析的事実に「二つの何かが連結することによって新しい何かが生まれること」が含まれていないのはどうしてだろうか。上述したような情緒的付置が生じれば,当然何かが生まれるということは周知だからこそ,これを含める必要がないということなのかもしれない。
人はひとりである。分離した個である。だからこそ人は生まれながらにして対象希求性を有しているとも言えよう。二つの心が親密に番うことで新しい何かが生まれるということは,生物学的に人が二人の人を介さなければ生まれないということとも同じである。
また人が傷つくのはもう一人以上の誰かの存在が関与しているのであるが,人が再生する,傷ついた心が癒されるときにもそこにはもう一人以上の人が関与している。
人は一人では生きられない。しかし,人と健全に関われるようになるにはその前提として「ひとりであること」に耐えることができるようにもならないといけない。生きていくって難しいことなんだな…っていうのが結論である。