『学校臨床に役立つ精神分析』平井正三・上田順一を読んで

本書は学校臨床という,即効性のある助言が教師,保護者,生徒から期待されがちな場において,いかに精神分析的理解を有効に利用できるかということを,事例を交えながら紹介したものである。万能の期待に持ちこたえながら,様々なサイコダイナミクスが渦巻く学校の中のSCとして,控えめながらも学校現場で役に立っている精神分析をオリエンテーションとするSCの活躍が描かれていた。教員,生徒,保護者などの集団力動などをどのように理解し,再早期記憶などをコンサルテーションに生かしたり,集団のコンテイナーとなって考えるスペースを生み出していくSCの活躍などは読んでいて嬉しくなるものだった。以下は,それとはあまり関係なく,ここのところ私が「精神分析で行われていること」に関連して,本書を読んで気になった部分の備忘録である。

叶わないかもしれないと自覚しつつ希望を持ち続けること

本書では,Mitchellが「希望」をかなわないかもしれない危険が常に内包されていることを自覚したうえで保持されるものと定義し,分析的関わりにおいては,この危険を承知で希望を持ち続ける態度に臨床家がとどまり,確かではない未来に価値を置く姿勢を維持することが求められていると指摘している,とのこと。

また,カウンセラーは考え続けることや悩み続けることについて,たとえそれに「意味がないかもしれない危険」を自覚した上でもなお,価値があるのだということを来談者に示していかなくてはならない,と執筆者のカヴィニオ重利子氏は言う。

さらに,Buechlerがここで大事なのは「私たち自身が希望を抱いているという事実」であり,「自らの回復力や困難の受容,喜んで懸命に働くこと(働くWORKこれは分析的作業をすることではないかと思うが),痛みに直面すること,そして正直に自分に退治しようとする意志」といった価値を臨床家が非言語的に表明していくことだと言っていることも書かれていた。

感想ーー死にたい気持ちと希望

不確かなことに持ちこたえつつというのはBionのNegative Capabilityに繋がるところだと思うが,そこに「希望」を維持しておくことが臨床家として大事であるというのは確かにそうなのだろう。クライエントに「死にたい」という思いを打ち明けられることがある。それは「死にたいほどつらい」ことを伝えたかったり,本当は「生きたい」ということを伝えているのだということはあちこちに書いてあるし,そうであることも多い。
しかし,そんなに生易しい話ではないこともある。心底,つらくて,どうしてそうまでして生きていなくてはいけないのかということが分からないという訴えであることも少なくはない。そこで先の未来に希望の持てない臨床家であれば容易に相手の「死にたい」に巻き込まれてしまうだろう。
死にたいという人は,未来に希望が持てないからこそ死にたいのだと思う。私は「どうして死んではいけないのか」についての明確な答えを持っていない。その答えを求められているかどうかも分からない。欲しいのは答えではなく,その思いを共に考えて行くこと,受け止めていく相手が欲しいのではないかとも思う。そこに希望があるようにも思う。

本書では,Buechelerが,臨床家が持つ臨床的価値観を治療に不可欠な特質とし,好奇心,親切,勇気などのパーソナルな側面を挙げている。これらは意図的に表現できるものではなく,訓練や臨床経験がパーソナリティに与えた影響の結果として表れると説明していることを取り上げていた。

心理臨床をやっていると,もちろんフロイトの理論,技法というものはベースにあり,その手法として転移現象の理解という部分ではその理論なくしては成り立たないことは大前提である。しかし,その姿勢・態度には普段から誠実に生きていること,自分を主張すること,自分らしく生きること,社会と折り合いをつけること,といった生き方そのものが現れることは免れない。そういったことを言語的に伝えるわけではないのだが,それが非言語的に伝わるのだろうと思う。何も立派な人になる必要はないと思うし,なれもしない。しかし,何か希望をもって,不確かな世界で,大事なものから目をそらさないように心掛けながら生きる姿勢といったものは常に問われているように思う。

すべてが思い通りにならないこと,万能を手放すことはクラインの抑うつポジション達成に欠かせないものだが,すべてを諦めてしまっては臨床には臨めないように思う。一方でどこか諦めない力,希望を信じる,その姿勢がなければ,人を支援するという場面に立っていられないのではないかとも思う。