羞恥心と罪悪感ーー西加奈子氏「舞台」を読んで

自意識過剰で何をするにも人目を気にして,羞恥心や罪悪感に苛まれながら生活をしている葉太が主人公の物語「舞台」を読んだので,気になったことを書いてみました。

自意識過剰からくる羞恥心と罪悪感

西加奈子氏の「舞台」を読みました。この物語は自意識過剰で何をするにも人目を気にして,羞恥心に苛まれながら,そして自分を演じてしまっていることに対する罪悪感の渦の中で生活をしている葉太が主人公です。
その羞恥心は病的ではないかと思えるほどなのですが(臨床家である私にはこの描写がなかなかに興味深かったです),彼はたとえ人が許したって,自分を許せず,陰鬱のなか羞恥に苦しみながら生きています。葉太は父親の死後,父親が残した「明るさ,生きる意志,生き続ける希望に溢れた」『地球の歩き方ニューヨーク』を暗唱できるほどに覚え,その本を携えて,そしてもう一方では,「社会の恐ろしさや対人関係の残酷さを丁寧に描く」,そして恥を痛いほどに知っており,「自分以上に血だらけ」で唯一信じられる作家である,小紋扇子の最新作『舞台』をセントラルパークで読むのだ!と身構えてNYに行きます。
しかし,その旅の初日,彼はセントラルパークの雰囲気に気分が高揚し,気を抜いてしまったところで財布やパスポートの入ったバッグを盗まれてしまうところから話が展開します。そんな緊急事態に際しても,彼は初日からセントラルパークで盗難に遭ってしまうというみっともない自分を恥ずかしいと感じ,すぐに警察や領事館に行くことはできないのです。

人とは違う,おかしいのではないかという不安

臨床現場では葉太のように,自意識過剰になって「正解」を求めて行動し,人の目を気にして思うように行動ができず,生きづらさを抱えている方々によくお会いします。葉太自身,こうした自意識過剰は思春期特有のものではないかと考え,そのうち薄れるだろうと思っていましたが,それは薄まるどころかどんどん強くなってしまったと言います。
特に,小さいころから周りに馴染めず,周りと少し感覚が違うという経験をしてしまうと,人と違うことを「自分はおかしい」「変だ」と誤解してしまって,病的に自省し自意識過剰になってしまうことがあります。そういう方々は「正解」を探して,正解を探りながら,期待されているであろうと思うことを話すのです。それはカウンセリングの場でも同じです。でも,「思ったことを何でもそのままお話しください」という精神分析的心理療法では,期待される「正解」はないので,最初は皆さん戸惑われるのです。そしてこうした方々からは「恥ずかしい」という言葉が頻繁に発せられます。

生き方に「正解」はあるのか

生き方に「正解はない」,これはこれでひとつの真実だと思っています。面接のなかでもよくお伝えします。しかしながら,この物語の中では,「漠然とした正解はある」ということが書かれています。服装や目つき,ものの言い方やしぐさ,あらゆることにセーフとアウトのラインはあって,意識・無意識の中で人はその正解の中に居続けられるように生活している,そして少しでも「あっち側」に行った人間がいれば嘲笑したり恐怖したりして排除するのだと。
確かにこれも「そうかもしれないなあ」と思う内容でした。実際のところ,「常識」とは人それぞれの信念でしかないのですが,人々の中にゆるりとした「常識」「正解」「普通」があることもまた事実だなとも思います。葉太のような人たちにはそれがあまりよく分からないからこそ,それから外れたくない,でも外れてしまっているのではないかという思いを常にお持ちなのだと思います。なんか,自分は周りと違うらしい…という感覚をお持ちの方であればこれはなおさらだと思います。「違う」という感覚は,あくまで「違う」だけであって,周りが正解ということではないということははっきりと伝えておきたいのですが,それでも「違う」という感覚は「間違っている」という認識になりやすいようです。
どのようなカウンセリングでも,「自分らしく生きよう」ということ,自分に嘘を通しているとつらくなるので,もっと自分を主張していいし,わがままを言っていいんだというメッセージの方が強くなりがちではないかと思います。そうは言っても,同調圧力なるものも否定しがたく存在し,異物は非難・排除されがちなこの世界で,自分を曲げずに生きていくことには大変なエネルギーを要します。そう思うと,葉太のように,どうしても感じてしまう「恥ずかしさ」や罪悪感といった気持ちへの理解を私自身もう少し深めなければならないと自戒しました。

葉太の養育環境による影響

またここで葉太の羞恥心や罪悪感の源泉として,どうしてもひとつ触れておきたいのは彼の育った家庭,両親のことです。詳しくは書きませんが,葉太の家庭には互いへの信頼感がまったくないと言えます。そんな中で育った葉太が自分に,そして他者への信頼感を持てるはずもなく,そこに自分自身の存在を認めることができないという状況が生まれているとも言えます。

何かを演じながら生きること

この物語の終盤,究極的なシチュエーションをNYで経験した葉太は成長を遂げます。極端な状況の下,海外でパスポートも財布も,スーツケースのカギまでもなくして手元には12ドル紙幣のみ,そんな中で彼は生き抜きます。
葉太はそれまでいわゆる普通を演じながら,誰の目にも止まらぬように生きていたように思います。しかし,彼はふとこんな風に思うのです。「誰かが何かを演じるとき,そこには自己を満足させること,防衛すること以外に,他者への配慮もあるのではないかと,自分みたいにゴミみたいな自分に疲弊して死にたいと思っている人間も誰かのために,何かのためを思いやって生きているのではないかと。そしてこの苦しみを真剣に苦しんでやれるのは自分しかないのだ」と。
ここで初めて彼は自分を肯定し認めてあげることができたのだと思います。

演じることと演じないこと

社会で生活していくにはありのままというわけにもいかないでしょうし,過剰な演技をしていては息がつまります。「ほどほど」というバランスが必要であることは,何においても言えることでしょうが,人に合わせること(=演じること),自己主張をすること(=演じないこと),それも時には,どうでもよいところは人に合わせ,譲れないところはちゃんと自己主張をする,そんなバランス感覚こそが肝要なのでしょう。しかし,そのバランスこそが難しく,時には合わせすぎたり,自己主張しすぎたり…を繰り返しながら,試行錯誤生きていくしかないのだろうなという感想です。

最後に

著者が,本書の最後に掲載していた対談の中で,「自分の気持ちで景色が変わる」ことを伝えたかったと話しておられます。そして,この物語の背景には9.11で生きたいと思うのに生きられなかった人たちの思いが流れてもいます。この物語は,それらの思いを背景に葉太がNYで生きる力を取り戻していく物語でもあります。
自分の気持ちを変えるのは何かしらの経験であり,その経験を通して考えること,思考することです。葉太が生きる力を得たように,カウンセリングに限らず,何かの体験がきっかけとなり,葉太のような人たちが生きるための思考を得られることを祈りたいと思います。