朝井リョウ『正欲』を読んで④ーー学校に行かない自由から考えたこと

①多様性というおめでたさ②繋がろうとすること③心理臨床の仕事 に続いて,朝井リョウ『正欲』を読んで考えておきたいことの備忘録のようなもの。最後は学校に行きたくないという欲求について,私たちはどう考えていくべきなのかということについて,寺井啓喜の父親としての考えを取り上げてみました。

学校に行きたくないという欲求

ここでもう一つ触れておきたいのは,寺井啓喜親子の物語である。啓喜は検事をしており,有名私立小学校に入った息子は不登校になり,学校に行かない生き方を声高に叫ぶYouTuberに憧れて動画配信を始める。そしてYouTubeの配信で視聴者からのリクエストに応じ,生気を取り戻す。そこには異常性愛者たちのよこしまなリクエストが紛れ,YouTuberの取り締まりでいったんはアカウントを停止されてしまう。
そして,学校に行かず,YouTube配信で元気を取り戻す息子を見て啓喜はやるせない気持ちになる。というのも、多くの犯罪加害者を見て,ルートから一度はズレた人間の転落の速さだけでなく,ルートから外れてしまうと犯罪との距離が近くなること,社会的つながりは犯罪の抑止力にもなることを知っているからである。
また,「学校に通うというのは強制的に集団の中に放り込まれることであり,時と場合に応じて必要な役割を感じ取って行動するという社会性や知られざる自分の特性を引き出されたりすることでもある」とも感じる。

他でも描いているが,私自身も学校に行くことがすべてだとは思っていないが,社会性(人と関わるためのコミュニケーションスキル)を獲得する機会を有効に提供する場が学校であると考えている点では私も寺井と同意見である。

不登校児への文科省の姿勢

小・中・高等学校の不登校児童が今年の3月には約30万人となり,文科省大臣は不登校により学びにアクセスできない子どもたちをゼロにすることを目指しでCOCOLOプランというものを発表した。不登校をゼロにするのではなく,不登校によって学べない子どもたちをゼロにするという表現であり,必ずしも学べる場所を学校に限定していないところがみそでもあろう。そして,「学びたいと思った時に学べる環境」では不登校児童が居住地に限らず通える学校の設置を考えているようである。
【セット】誰一人取り残されない学びの保障に向けた不登校対策について (mext.go.jp)

この提言の中には「多様な学び」「多様な支援」「多様な居場所」などやたらと「多様」という言葉が出てくるものの,「集団」になじめない子たちに,果たしてどうやって社会性を学ばせるのだろうか。大人になってからも様々な人と付き合っていかなければならない現実は待ち受けている。多様な機会を用意することは望ましいとは思う。たとえば,様々なタイプの学校を作り,多少なりとも自分のタイプに合う学校を選んでその集団の中で社会性を学べるようにするというのが一つの選択肢であろうか。

しかし,そうなるとかなり多くの学校と資金が必要となるだろう。教員だってまったく足りない。また,個性に合わせた教育とは簡単にいうものの,そうした個別のニーズに社会は応じられるのだろうか。それに,学校教育法によって学校の範囲を広げなければならないだろう。どう考えても簡単に解決する問題ではないと思われる。ひとまずは,中学校においても朝が苦手な子どもが通える定時制の学校などの拡充,少人数制で授業が受けられる学校などが手始めだろう。

好きなことしか頑張れない子どもたち

さらに,興味・関心のあることにしか頑張れない子どもたちについてはどうしたものだろうか。どんな職業についても,好きなことだけで生きていくことはできない。どんな職業についても嫌なことはある。そうした問題をどうしたものか。そもそも人生は辛いこと,思い通りにならないことの方が圧倒的に多い。この現実にどのように好きなこと以外頑張れない子どもたちを適応させればよいのか。家庭,学校,社会の中でこういった問題をどのように考えていけばよいのだろうか。

いまのところ,「嫌なことでも頑張って受け入れ,多少なりとも我慢して生きていくしかない」,それを30歳くらいまでに理解してもらう,私は希望的にそのように考えている。10代でそれが分からない場合には,発達が遅れているのだと考えているのだが,いまの10代の若者たちが30歳くらいまでにそのようになるのか,それはまだ分からない。

たとえば,理性が働かず,衝動性が高いと,忍耐が効かないことは想像に難くない。だから,薬物による衝動性の制御によってある程度の忍耐が可能となる可能性はあろうが,それ以外の方法でいかに忍耐力を獲得できるものなのかはまだよく分からないし,我慢したくない子や自由に好き勝手にやりたい人,行きたい人が,人と共に学んだり働いたり暮らしたりすることは難しいだろう。

いじめなどによって学校に行けなくなってしまった子どもたち

いじめなどによって対人恐怖があまりにも強くなってしまったりして,学校に行けなくなってしまったという子どもたちの場合には,ある程度心理療法が有効だと考えているが,刺激に敏感すぎるなどの器質的な要素が背景にある場合には薬物療法との併用が必須であろう。
人はもともとは対象希求性のある生物であり,社会的動物でもあると考えられるので,こうした子どもたちの場合,たとえ現在の既成の学校に行かなくとも,行けなくなっても,自分とタイプの似た子たちが見つかるような別の集団の中であれば,「学校」にいって,勉強したり社会性の獲得をしたりすることもできるのではないかと思う。

多様性の受け入れと個性に応じた場の提供という矛盾

このように考えてみると,多様な人たちと関わることが難しい子どもたちには,先に挙げたように自分たちに会うタイプの学校,つまり自分と似たタイプの人たちを探せるような,自分の個性に応じた場の提供をしましょう,ということになる。しかし,これはそれこそ本書でテーマとされていた「多様性」を受け入れていこう!の世の中であるのに,その逆を行ってしまうように思う。

多様性を受け入れるというのは,それぞれがばらばらに棲み分けて暮らそうということではなく,インクルーシブ,共に生きていこうという話だったはずなのに,それはどうもうまくいかなさそうである。人には対象希求性があるのと同じように,異質なものを排除しようという傾性もあるわけで,そこが難しいところでもある。

最後に

結局,『正欲』を読んで考えたことを,言語化して,OUTPUTしてみようと試みてみたのだが,本書が提起する問題にはまったく歯が立たず,ただの備忘録に終始してしまった。それでも考え続けることの素材として,頭の片隅に置いておきたい素材はピックアップできたと思う。