精神分析で行われていることーー『精神分析の本質と方法』松木邦裕・藤山直樹から

『精神分析の本質と方法』松木邦裕・藤山直樹を読んで,気になったところを抜き書きしています。精神分析で行われることについての両先生のコメントはまさに「転移を生きる」ことについて説明しているように思います。

藤山による「精神分析で行われていること」

分析家は患者の世界の一部に組み込まれず,一人の生きた自分自身のこころをもってものを考えることが仕事。それは患者の深いところで患者を支える。

解釈を目指してそこをもちこたえて,生き続けていることが大事。ただひたすら転移を扱うだけ。分析家は解釈以外のことをしないということが大事。

微妙に患者の世界に組み込まれて,だけど生きているセラピストを,そこに提示し続けるということ

松木による「精神分析で行われていること」

患者が目指していることは自分自身を理解すること,自分自身にとって真なるものを理解すること、

この真なるもの,面接室のなかの現象の理解に必要なことが,転移を感知すること,体験感覚としてわかることが大事という意味で、理解ではなく,感知することという表現を使った

転移とは,その人がいま,抱えているこころのなかの世界が外界に、面接室の中にそのまま出てくること。過去の事実が現れるのではない。

セッションではそれを受け取り意識化した私たちは,解釈という言葉にして返す,言葉を選んで並べるという作業,分節化を行い,つまり,言葉という象徴的なものを使って,私たちから患者にそれを投げ戻す,というやりとりをしている。

患者はいろんな自分自身を連れてきて面接の場で、いろんな自分を表す。そして、いろんなそういう自分自身と、「その各自身にかかわるある特定の内的対象」として,私たちを体験する。

最後に

まとめると,面接室の中に転移という現象として現れたCLの無意識を感知し,それを言語化して解釈という形にしてCLに取り入れられる形にして返す,つまり転移を扱うということ,そして解釈をするということこそが精神分析の本質である。
これを私なりに言い換えてみると,転移を生きるということは自分を晒して,自分の心を転移に巻き込ませながら,それでも飲み込まれることなく,俯瞰でその現象を捉える自分を維持する…ということのようである。言葉にすることはできてもその実態は臨床の中でしか感じることはできないものであろう。

また「解釈しかしない」ということ,これは非常に難しいことである。Freudも「精神分析を実践する医師への勧め」(1912)で教育的活動の誘惑に屈しないことを述べている。しかしながら,転移に巻き込まれてしまうと,万能であることの期待に屈し,または無能であることへの防衛として,そして投影された怒りを自らコンテインできず,教育的なことを言ってしまう自分がいる。「解釈以外のことはしない」心に刻んでおきたい。