困った相手とどう関わるかーー反応しない練習②

草薙龍瞬氏の「反応しない練習――あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」」を読んでいる途中。

困った相手との関わり方

心に苦悩を溜めないためには,「反応しない」の次は「相手とどう関わるか」「相手にどんな心を向けるか」が大事なのだと。困った相手との関わり方は,
①相手のことを「判断」しない
②過去は「忘れる」
③相手を「新しい人」と考える
④「理解しあう」ことを目的とする
⑤「関わりのゴール」を見る・・・らしい。

「判断」しない

人は人,それぞれに考え方,正しさを持っているわけで,①判断は不要。

過去はただの記憶,反応しても仕方ない

②の過去は忘れる…というのは,そもそも最初の怒りの対象は「相手」かもしれないが,時間がたってもいらいらするなら,その原因はもはや「相手」ではなく「記憶」なんだと。しかも,万物は常に変わりゆくのであるから,人も同じ。今現在のAさんは,私の記憶の中のAさんとは異なる人物,だから③「新しい人」と考えたほうがよいよって,いうわけ。

また,人は,記憶の中のいやな思いにとらわれる,でもそれは頭の中にしかないわけだから,それは「妄想」で,人はその妄想によって苦しめられる。したがって,「記憶は記憶,思い出しても反応しない」のが最高の智慧なのだとも言っている。

ビオンの「記憶なくと欲望なく」との類似

どうも仏教の教えを読んでいると,ビオンと重なる部分が多いなと思わせる。ビオンは,分析の治療者の態度について語っているので,文脈は別ではあるが,「記憶と欲望」そして,その覚書の中で彼は,まず,「過去のセッションは思い出しなさんな!」と,そして,「セッションではその患者にかつて会ったことがないと感じるような心の状態を達成せよ!」と言うのである。彼に言わせればその理由はこうである。人は自分が望むものを覚えている傾向があることや,記憶なんてものは無意識的に歪曲されているんだから,と。そして,欲望は,「判断」されるべき素材の選択と隠蔽によって判断を歪める,だから記憶も欲望も,目の前の患者の理解には邪魔なのだよ!と。これは分析状況に限らず,一般的に言っても相だろうなと思う。

さらに仏教では,記憶は目の前に現存するわけではないのだから妄想だと,これは,ビオンが記憶なんてそもそも歪曲されてるよねっていうのと,同じことである。

また,仏教では「判断」自体を否定しているが,仏教の言う「判断」は決めつけ,思い込み,一方的な期待と要求で執着の一つだというから,ビオンが,「判断歪めるから記憶も欲望もNGね!」は,仏教での「判断」とは随分意味が違うようだ。ビオンの言う「判断」は「理解」に近いようだし,ビオンも思い込みはNGなわけだから,これも仏教の教えとは矛盾しないように思う。

理解しあうこと

そして,目的には,④「理解しあうこと」が出てくるわけだが,そもそも怒りで反応しそうになっている相手を「理解する」なんていうことは,中学の頃に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」と教わったキリスト教の教えを聞いた時くらいに,無理!・・・ってなっている狭量な私だが,「もし相手が理解しようとしない,聞こうとしないのなら,それはもはや関わる意味のない相手かもしれない」という一文にひとまず逃げ込むことにした。ただ,⑤「関わりのゴール」,要は方向性としての大前提は,相手と分かり合うことですよ,と。それは納得。仏教では「相手に委ねる」っていうのが,人間関係の基本なわけだから,相手が理解しないのなら,それは仕方ないよねってことなのだろう。

反応しないことと,投影の容器としての役割との関連

そして,ここに来て,前回の問い「反応しないことと投影の容器になること,投影を生きることとの関連は?」については,案外すっと紐が解けた。投影の容器になるということは,相手を理解するために,投影を理解する,考えることであって,投影に反応することではないのだと。そうだった,そもそも分析の対象は相手の心なわけで,対象理解なのだから,答えは簡単,投影に反応する(もちろん逆転移は避けられないが)のではなく,理解することが目的である,それを見失ってはいけないのだ。

追記

ブレンマン=ピックは「逆転移におけるワークスルー」において「真の解釈とは分析者が心の動揺を経験したが,それを行動化せずに咀嚼して解釈したものであろう」としている。ここにも反応するのではなく,理解してそれを言語によって伝えること,それが投影の容器の役割が記述されているように思う。