言葉から離れないこと

言葉は無力なのか

まだ,もっともっと,若かった頃,相手が自分で言ったことをまったく覚えていないとき,テキトーな言葉を使ってゆるっと話しているのを思い知らされるとき,(自分は棚に上げて)なんて人はいい加減に話しているのだろうか,とがっかりしたものだ。「どんなに話しても無駄だ」という相手を前にして,言葉の無意味さに脱力していた。分かり合えないことを,自分を顧みることなく言葉のせいにして,一人で勝手に虚しさを感じ,無力感に打ちのめされていた…気がする。

しかし,分析家である松木邦裕先生が,「言語化,とくに解釈の役割ーー言葉から離れないこと」(2002)において,私たちの日常のコミュニケーションはかなりの部分,快感原則に従う一次過程思索で交わされており,無意識のうちに投影同一化の空想のもと,思考や感情を心から排泄している,と書いておられるのを見つけた。

多くの会話は一次過程思索によっている

そういうことだったのか。普段の何気ない,とりとめのない会話というのは,必ずしも現実原則に沿って論理的整合性を有した思考同一性の下にある二次過程の思索ではないのか,と。だったら,大雑把に,いい加減に,良くも悪くも適当に会話が為されているのも当然かもな,と。何も,大層に,「言葉は無力だ」と落胆せずともよかったのかと。むしろ,言葉は無力だと決めつけていたのは,妄想分裂ポジション的思考で,言葉に万能を求めた考え方でもあったと,少し気が楽になった。

解釈は二次過程思索によるコミュニケーションを目指している

松木先生は,私たちは,排出された言葉にされていない思考や感情を,意識のものである言葉にすること,解釈によって,二次過程思索のコミュニケーションでの交流の成立を目指している,とする。
精神分析はクライエントの情動に焦点を当て,無意識の情動の言語化を目指す解釈を技法としているが,その作業には,愛情や尊敬だけではなく,憎しみや嫌悪,軽蔑を含んだ心の真実から目を逸らさないでいるという苦痛が伴う,したがって,私たちは世話をする役割とか,非言語的交流という非言語的で退行的態度に流れがちだとも。だからこそ,「私たちは言葉から離れないでいたい」と結んでおられる。

諦めていなかった言葉の力,そして,心の理解

私は,心理臨床の世界に入る前,言葉の無力さに打ちのめされていたはずなのに,気づかないうちに,ビオン(1953)が「言語の交わりverbal intercourse」と呼び,こんなにも言語化を重視する精神分析について学んでいた。それは,言葉にならない何かを,伝えたい何かを言葉にすることがもつ力,自分や他者の心の理解を諦めきれずにいたからなのだろう。そして,奇しくも,解釈が,私が昔,おそらくこだわっていた「思考同一性」を目指し,精神分析が二次過程による交流を目指すものだったからなのだろう。
「言葉から離れてはいけない」・・・肝に銘じておこうと思う。