症例のテクスト化で感じる違和感ーーオグデン著『精神分析の再発見』から
今回は,臨床力の研鑽のためと参加する症例検討会や学会での発表時に感じるふとした違和感の正体について,オグデン著『精神分析の再発見ーー考えることと夢見ること 学ぶことと忘れること』(邦訳2021年,14頁)の記述から考察してみた。
症例提示に登場する「フィクションとしての人物」
スーパーヴィジョンのペアやセミナーグループで提示されている患者は,分析家の面接室のカウチに横たわっているその人物ではない。むしろ、その患者はひとつのフイクションであり,その症例を提示する過程でスーパーブァイジーあるいは症例提供者が創造している(夢見て作り上げている)物語のなかの登場人物である(Ogden, 邦訳2021年,14頁)
精神分析に携わり始めたばかりの頃,学会でケースを口頭発表する抄録を書いていると,妙な違和感を抱いた瞬間があった。それは,たとえ症例の理解を深めるためのプロセスだとは言え,私と彼,彼女の間でのやりとりを第三者に晒すという守秘性への懸念だけでなく,抄録に描出された「彼,彼女」は,私がオフィスで会っている彼,彼女ではない何かを提示しているような気持ち悪さであった。
当時は,症例の呈示は,その目的に合った部分を抜き出し,文脈を再構成しており,匿名性を保つために改変が加えられている,そうした当然の編集作業を経ているために,私が会っている患者とは別の患者が提示されてしまっているのではないかという違和感は,仕方がないとも諦めたが,何か真の情緒的やり取りを描出できていない,つまり,どこか嘘をついているような違和感が拭えなかった。
「夢見」とは何か──無意識的な心理的仕事として
しかし,この違和感の背景には,「夢見」としての症例記述,症例提示という視点が関係していたのかもしれないと,オグデンの記述によって気づかされた。つまり,私が提示している発表の中の患者は,フィクション,私の夢見によって作られているフィクションであり,オフィスで目の前にいる彼,彼女ではないのだから,その違和感は当然のことなのだ。
「夢見」という心理的作業については次のような説明がある。
- 人が自分の情緒的な体験についておこなう,無意識的な心理的仕事(Ogden,同上)
- ビオンは,目覚めていて夢見る心の状態を「もの想い」とし,無意識的に考えること,考えられないものを考えられるようにする作業を夢作業-αと考えている。藤山(2015)は「ビオンにとっては,dreamingはthinkingと同じ」としている(松木邦裕「パーソナル精神分析辞典」)
- 夢見ることは,夢見る者に生じた情緒的問題を処理する情報処理過程だということもできる(アメリカ精神分析学会精神分析辞典)
このように見てみると,「夢見」を通したフィクションとしての物語を通して,私たちは自分自身を,そして患者自身を意味付けているのであり,そこに何かしらの生で体験する患者と夢見後の患者の違いを私が感じてしまっていたのだろう。
この違和感から20年経って気づいたのも興味深いものである。ここのところ,この違和感は軽減しているように思う,願わくば,この年月の間に,多少はこのズレの幅が小さくなっているが故のことだと良いのだが。
スーパーヴィジョンや症例検討会の役割──「夢見」のサポート装置として
オグデンは次のようにも述べている。
分析家は患者をスーパーヴィジョンの面接やセミナーに連にてくることはできないのだから,自分がその患者とともに生きている体験の情緒的な真実を伝えられるフィクションを言葉を用いて創造しなくてはならない。
そして,
症例提供者はスーパーヴァイザー(あるいはセミナーグループ)に対して、分析のなかで起こっていることを自分が夢見る(意識的無意識的な心理的仕事をする)能力の限界を,意識的無意識的に語るだけでなく見せてもいる。スーパーブァイザーとセミナーグループの機能は,分析家がまだ夢見ることができていない患者との体験のいろいろな側面を夢見ることができるように、分析家を手助けすることである。
この記述には強く共感する。
SVや症例検討会で得られる「第三項」としての視点
かつて私は,症例検討会の意義を「自分の物差しのチェック機能」と表現したことがある(Blog「分析的心理療法における投射スクリーンによる信頼性の担保ーー症例検討会,SV,GSVの機能」)。この時には,このオグデンの記述する「夢見」を豊かに深める場としての機能については考えが及んでいなかった。しかしながら,ここ数年,人に症例を提示した際に感じるのは,一対一の関係では見えにくくなってしまうものに,風を入れる。煮詰まったスープに水を足すような感覚だった。
第三者という存在,第三者の視点が入ってくることで,私の夢見の作業が一気に進展する。オグデンは,症例を提示した者が見えなくなっているものを見えるように促すものとしてのSVや症例検討会の機能を指摘しているが,まさにその通りである。また,他者の症例に参加しているとき,自分自身の症例における夢見もまた,活発に動いている。
おわりに
「提示された症例=実際の人物」ではないということに伴う違和感や居心地の悪さの理由がオグデンによって言語化された気がした。そして,オグデンの記述から,「夢見」を通して生まれるフィクションとその必要性,いや,そこで夢見られて付与されていく意味にこそ,精神分析的心理療法の治療機序が含まれていることを再認した。