朝井リョウ「正欲」を読んで①ーー多様性というおめでたさ

朝井リョウ氏の「正欲」を読んだ。本書はマイノリティの生きざまを描いたという点では,村田 沙耶香氏の「コンビニ人間」や宇佐見りん氏の「推し,燃ゆ」とも近似するテーマを扱っているように思うが,これらの小説とは比べ物にならない強烈な衝撃を私は食らってしまった。日々,生きづらさを抱えた人たちと相対し,その心を理解するという心理臨床を生業としている私にとってはかなり痛い本でもあった。ということで,この衝撃が熱いうちに,まだ考えもまとまってはいないが,この衝撃を,内容を備忘録的に少しでも言語化しておこうと思った次第である。

マイノリティの抱える苦痛と彼らのサバイバル

まず一読して,本書は「多様性というおめでたい言葉が溢れる世界で,正しい命の循環の中で生きるマジョリティとされる私たちの中で,特殊な性欲を持った人たちが,どんな苦悩を感じつつ,それでもどうにか明日を生きようとしているのかを描いた物語」とひとまずは理解した。

物語は,この世界は人々が「明日,死にたくない」と感じていることを大前提として成り立っており,彼らには自然と自分の人生に他者が現れてくれて,自分以外の命と共生している,そうした世界に自分は留学しているような感覚だ、という趣旨の佐々木佳道の書いた文章から始まる。佳道は特殊な性欲の持ち主である。

多様性という言葉が生むおめでたさ

そして「多様性という言葉が生んだものの一つに,おめでたさ,がある」と佳道は言う。

同様の欲求を持つ彼の同級生,桐生夏月は正しい命の循環の中で子どもを産み育てる人たちの何気ない会話に侵襲されながら,どうにか生き延びているのだが,彼女も「多様性とは都合よく使える美しい言葉ではない,自分の想像力の限界を突きつけられる言葉のはずだ。時には自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはず」と,多様性という言葉のおめでたさを糾弾する。

私は多様性を声高に叫んで仕事をしているわけではないが,それでも「自分らしく生きる」ことを臨床の目標のひとつに掲げている。これも確かにおめでたさの証でもあるのかもしれない。

多様性を認め自分らしさを追求することが孕む矛盾

自分らしく生きることを掲げるのはどうしておめでたいのか。主要な登場人物のひとり,検事である寺井啓喜は「水を出しっぱなしにするのが嬉しかった」と水道の蛇口を盗み,水を出しっぱなしにして捕まった異常性癖の犯人に対して「どんなに満たされない欲求をかかえていたって,それを社会にぶつけていいわけじゃない」と話す。その通り,本当に「自分らしさ」を貫けば,共同生活,社会適応は難しい。たとえば,顕著なものは小児性愛者だが,「自分らしさ」を追求すれば法に触れる可能性もあり,そうなって捕まってしまえば,その人の自由は奪われる。
つまり,「自分らしさ」にだってある程度の落としどころ,折り合いというものが必要なわけで,それにもかかわらず,自分らしく生きることをさも素晴らしいことかのように掲げるのは,やはりおめでたいのである。
本当は「自分らしく生きよう」と掲げているのは正確な表現ではないと自省する。私が目指しているのは「社会とうまく折り合いをつけた上で,許される範囲で自分らしく生きよう」ということなのだ。

鈍さは重い邪気である

夏月は「社会の多数派から零れ落ちることによる自滅的な思考や苦しみに鈍感でいられること。鈍さは重さだ。鈍さからくる無邪気は,重い邪気だ」という。

この言葉からは,日々の臨床で私には「周りと違うと感じることの孤独,息苦しさ」への理解が圧倒的に不足しているという現実を突きつけられる。私が出会う人の中には,異常性愛者というわけではないものの,「周りと違う」ということに苦しんでいる人が少なくない。客観的には「皆違って当たり前なのだから,そこまで悲観する必要はないのに」と思うことも多い。しかし,この本を読んで,彼らの苦しさに私はちっとも触れられていないことを突き付けられた。

2年程前になるが,症例検討のコメンテーターとして精神分析家の北山修先生が私に「この人の孤独っていうのは相当なものだと思うよ,計り知れないものだと思う」としみじみと仰った。私が彼女の孤独にまったく触れていない,もちろん言葉では取り上げているけれども,私が情緒的な水準で彼女の孤独を理解していない,それどころか,理解しようともしていないということを北山先生は直観されたのだと私は申し訳なく思ったが,それから私は少しでもその孤独を理解しただろうかと考えると,何と答えたものやら言葉が見つからない。
もっと言えば,これからも私は彼らの苦痛を感知することができないのかもしれない。そうだとしても,この私の鈍さは患者にとって邪気になってしまうのかもしれないこと,少なくとも,このことはよくよく心に留めておかねばならない。

自分はマジョリティ側にいるのか

また佳道は「だけど誰もが,昨日から見た対岸で目覚める可能性がある」のにとも言う。私は当たり前のようにマジョリティ側の人間としてこの小説を読んでいるのだが,実際,マジョリティと言ってもあらゆることにおいて自分がマジョリティということはありえないだろう。

だからといって,自分だって「確かに自分がマイノリティになりうる」のだというのも安易な浅い感想でしかない。一方で,彼らを傷つけているマジョリティだと開き直ったとして,マジョリティ側から何を言っても結局私は,マイノリティの傍観者でしかない。おそらくこの辺りが,本書の感想としては何を書いたところで…という部分である。

このように,この記事を書き始めたところで私は,東畑氏が解説を書くにあたって「メチャクチャ身構えている」と書いた訳,宇垣美里氏が「自分の傲慢さをまざまざと見せつけられてこんなの,簡単に分かるーとは言えるわけない」とコメントを寄せている訳が非常によく分かってしまった。

それでも心理臨床に携わるうえで,心に留めておきたい大事な点が幾つかあり,言語化は大事だと思うのでもう少し書いてみようと思う。

つづく  
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