毒親のもとで育つということ
村上春樹の新刊『夏帆-The Tale of KAHO-』を読みました。
「夏帆」というのは,村上春樹が長編小説としてはじめて,女性を単独の主人公に据えた作品です。26歳の絵本作家である夏帆は,初対面の男から心無い言葉を投げつけられたことをきっかけに,ありくいの夫婦やオートバイに乗る謎めいた男といった,どこか浮世離れした存在たちに導かれながら,説明のつかない出来事に次々と巻き込まれていきます。読みながら,これは一人の女性が,母親という重力から少しずつ自由になっていく物語なのかもしれない,と感じました。そして,直接この物語に重ねて…ということではないのですが,今回はかねてから気になっていた,母と娘の関係性,「毒親」というテーマについて書いてみようと思いました。
毒親とは?
「毒親」という言葉は,心理学者スーザン・フォワードの著書『毒になる親 』をきっかけに広まったもので,子どもを支配したり傷つけたりして、子どもの心の成長にとって「毒」になる親を指す用語です。
アダルト・チルドレンと同じように,学術的な用語というよりもより一般的な用語として使われるものです。
たとえば,「大丈夫?」,「心配なのよ」,「お父さんが(お母さんが)守ってあげるから」
こうした言葉に象徴されるように,毒親と呼ばれる関わり方には,いくつかの典型的なパターンがあります。
- 過保護・先回り型:先回りして子どもの挑戦を止め,行動範囲を狭め,自分の手元に置いておこうとする
- 罪悪感を刺激する型:「あなたのために,こんなに我慢してるのに」と,親の苦労を子どもに背負わせようとする
- 感情の否定型:「どうしてそんなことで泣くの?」と,子ども自身の感情よりも親の解釈を優先させてしまう
- 条件付きの愛情・比較型:「いい子」でいる時だけ機嫌が良く,きょうだいや他人と比較し続ける
- 支配・監視型:交友関係や予定を細かく尋ねてプライバシーを侵してきたり,「あなたのことは全部わかっている」と自他の境界線を越えてきたりる
多くの場合,これらは単独ではなく,いくつかが組み合わさった形で現れます。どの型であっても共通しているのは,子どもが自分自身の感情や判断を,少しずつ信じられなくなっていく,という点です。
ラプンツェルが閉じ込められた塔
グリム童話,そしてディズニーの「ラプンツェル」は,こうした関わりを鮮やかに描いています。塔に閉じ込められた少女は,育ての親である魔女によって外の世界の危険を教え込まれ,長い髪だけを頼りに外とつながることを許されます。魔女にとってラプンツェルは,守るべき存在であると同時に,自分の所有物でもありました。
こうした母親たちが娘にしていることは,外の世界を「怖いところ」として描き,娘を自分の手元に留めておくことです。
娘を「自分の延長」,あるいは「自分の一部」として扱い,娘の失敗も成功も,まるで母親自身のことのように扱ってしまう。
それは,たとえ本人に悪意がなかったとしても,娘の側からすれば,コントロールであり,支配です。
大人になった今も,何かを決めるたびに強い不安がよぎる,自分の選択に自信が持てない,他人の顔色ばかりうかがってしまう。
そうした生きづらさの根っこに,この構造が横たわっていることが,臨床の場では少なくありません。
絵に描いたようなひどい毒親とまでは行かずとも,息子や娘が巣立っていくことを素直に喜べない気持ち,毒親要素とでもいうようなものはどんな親のなかにもあるものです。
放置された呪縛が行き着く先
この構造を,フィクションとしてではなく,実際に起きた出来事として描いたノンフィクションがあります。元記者の齊藤彩氏による『母という呪縛 娘という牢獄』(講談社)です。2018年に滋賀県で起きた,長年にわたり母親から強い管理と依存を受け続けてきた娘が,最終的にその母親の命を奪うに至った事件を,丹念な取材によって追った一冊です。
この本が突きつけてくるのは,母娘の間の支配と依存が,誰にも気づかれないまま何年もかけて深まっていくと,当事者たちの手に負えないところまで行き着いてしまう場合がある,という事実です。多くの場合,ここまで極端な結末には至りません。ですが,日々の何気ない一言から始まる小さな支配の積み重ねが,時に想像を超える重さを持つのだということを,この事件は静かに教えてくれます。だからこそ,紐が絡まりきってしまう前に,その存在に気づき,ほどいていく作業には,大きな意味があるのだと思います。
繭を破るとき
娘の側にとって大切なのは,母親という存在を「克服」し,自分自身の人生を生きることです。ここでいう克服とは,母親を否定したり,関係を断絶したりすることではありません。母親の願いや不安を,自分自身の願いや不安と区別できるようになること,そう言い換えることができるかもしれません。
ラプンツェルが最終的に塔を出て,自分の足で歩き出したように,娘もまた,母親という繭の外に出ていく必要があります。娘はこれまで,母親という繭のなかで,かたちを与えられながら育ってきました。繭は,冷たい外気から娘を守ると同時に,娘の輪郭を,母親の望む形に押しとどめてもいます。成長に伴い,娘はその繭を,自分の手で内側から破らなければならないことに気づくのですが,そこには母親を置き去りにするような罪悪感が伴いがちです。
このとき大切なのは,正しい答えを探すことではなく,自分自身の判断で,飛んでみることです。
ただ,最初からうまく飛べるはずもないので,最初は何度も落ち,風に流され,時には木の枝に引っかかったりしてしまうので,「やっぱり親の言うことを聞いていればよかった」「私の判断ではだめなんだ」と思ってしまうこともあります。
ただ,そうやって少しずつ自分の翼の使い方を覚えていくことが大事です。
失敗すること自体が,むしろこの過程には欠かせません。
母という存在の重さを認めながら,それでもなお,自分の翼で,たとえ不格好であっても飛んでみること。それが,多くの娘たちにとっての,静かな,しかし切実な課題なのだと思います。
もし今,この文章を読みながら,胸のあたりが少し苦しくなった方がいらっしゃるなら,
それはきっと,あなたの中の「本当はもう気づいている部分」が反応しているのだと思います。
長年かけて厚くなった繭は,一人で破ろうとすると,かえって出口が見えなくなってしまうこともあります。
それでも「勇気」を持ってください。あなた次第です。
桜心理カウンセリング恵比寿では,これまでもそうやって飛び立っていった人たちを応援してきました。
ひとりではちょっと…という気持ちで,味方や応援が必要になったら「精神分析的心理療法」という場はあなたの助けになると思います。
なお,ここでは母と娘という組み合わせを中心に書いてきましたが,実はこれは母娘に限ったことではありません。臨床の現場では,父親が,ここで書いてきたのと同じような関わり方をしているご家庭にお会いすることもあります。子どもを自分の一部のように扱い,外の世界から遠ざけようとする力は,性別を問わず,親という立場そのものに潜んでいるものなのかもしれません。
おすすめの本:『娘が母を殺すには?』三宅香帆著
「母と娘の物語」を,数々のフィクションから読み解いた本として,三宅香帆氏の『娘が母を殺すには?』があります。萩尾望都や吉本ばなな,川上未映子など,数々の小説・漫画が描いてきた母娘関係を辿りながら,「母殺し」という視点から,娘が母親の規範から自由になっていく道筋を論じた一冊です。
今回のテーマに関心を持たれた方には,あわせて手に取ってみていただきたい本のひとつです。


