時間と空間の起源――岸田秀「ものぐさ精神分析」(1977)覚書

岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」収録の「時間と空間の起源」についての覚書

無意識の世界に時間は不要

フロイトは無意識は否定を知らず,すべては肯定されるため,その世界に時間は不要である,そして,意識においてはじめて時間が現れる,とした。この考え方を敷行したN.O.ブラウンは,人間が時間と歴史をもつようになったのは,抑圧する動物だからであるとした。

悔恨が過去と時間を創出

人間の欲望は幻想と結びついているために限りがない。しかし,人間は欲望を抑圧できる。そして,欲望を抑圧した際には「もしかしたら欲望を満たすことができていたのでは?」と悔恨が生まれる。その欲望を抑圧した時点,欲望を満たすことができたかもしれない時点を「過去」とした。その過去と現在の間に「時間」が構成された。つまり,悔恨が時間を産む。

時間の分割

あらゆる欲望がすぐさま満たされれば,過去と現在は区別できず,人は現在に埋没する。しかし,満たされなかった欲望を媒介として,過去は,現在に割り込んでくる。それを阻み,過去は過去であることを認識するために,人は時間を年,月,日,時,分と分割した。

修正される過去としての未来

また,過去をやり直すチャンスが得られるかもしれない時点として,未来を設定した。つまり,未来とは修正される過去である。死を恐れるのは,過去を修正するチャンスである未来が限定されるからである。

時間の発明による罠

ある時点における行為はひとつの絶対的事実で,別の時点のいかなる行為との間にも等式は成り立たない。しかし,時間の発明の罠はまるでそれが可能かのように思わせてしまうことである。復習や恩返しは,この等式が成り立つという錯覚に基づいているが,復讐が過剰に,恩返しにキリがないのも,埋め合わせは不可能だからだ。

空間の発明

子宮内の乳児は空間を知らず,全宇宙が自己,全知全能だが,徐々に不快な者,思い通りにならないものとして,自己ではないものの存在に気付き,それが徐々に増えていく。それは,自己の領域が着実に狭められる過程であり,耐え難い屈辱である。フロイトは「人間は憎悪のうちに現実を発見する」と言っているがこれも同じである。そして,自己ならざるものに転化していったもろもろの対象を閉じ込めるための容器として,空間を発明するのだ。

より早く,より遠く

空間の征服にかける情熱は,空間の病であり,耐え難い屈辱を克服しようとするあがきである。暴走族は空間の屈辱に対する復讐の快感である「天に昇ったような気持」は空間の限定が否定される感覚である。

感 想

岸田氏は,時間も空間も人間の発見ではなく,発明だとするが,要は,時間と空間の創出は,防衛の一環と示唆しているのではなかろうか。ここでも,私にはナルチシズム論同様,メラニー・クラインの乳児の心的発達の定式化が思い起こされる。彼女の定式化では,空腹を満たす良いおっぱいと,空腹のまま放置する悪いおっぱいは,分裂した別のものである。妄想的になんでも叶う全知全能の状態のこの妄想・分裂ポジションの局面には時間の観念がない。しかし,そこに時間軸が表れ,かつ,健全な発達を進んでくると,おっぱいを惜しみなく差し出してくれていたお母さんも,おっぱいをくれなかったお母さんも,まとまった一人のお母さんであることを認識せざるを得なくなる。この抑うつポジションの局面へと進む過程で,悪いおっぱいには憎しみを抱き,攻撃していた乳児は,後悔や後ろめたさ,申し訳なさ,罪悪感,償いたいと思う気持ち,感謝の念を抱くようになる。

発達の相当早い段階に悔恨を想定する岸田氏と,抑うつポジションに後悔の念を挙げるクラインとは,同じ現象を見ているように思う。ただし,クラインの場合は,時間軸の発生と,時間を遡れない絶望感と共に生じる後悔や罪悪感などの生起を,前者が後者に先行する,もしくは相まって生じてくると捉えているように思う。少なくとも,ここで生じる感情が時間を生じさせるとは言っていない。ここが,悔恨が時間を生じさせると明示している岸田氏との違いである。クラインのこのあたりの理論は1940年代のもので,スィーガルの「メラニー・クライン入門」が1977年に,クラインの著作集が日本語に訳され出版されるのは1980年代に入ってからのことである。この文章の初出は1975年の「ユリイカ」であるから,岸田氏はクラインの理論を原著で読み,かなりのシンパシーを感じていたのではないかと思うがどうだろうか。

次に空間について考えてみよう。クラインの理論で空間と言えば,口愛期から肛門期にかけての早期エディプス期,サディズムが絶頂となる頃,母親の身体が内包するペニスや糞便,赤ん坊に,サディズムや知識本能desire for knowledgeが向けられる,と強調していることが思い浮かぶ。少なくともこの時点で,乳児の無意識的空想には母親の身体の内部という「空間」が想定されていると考えられるが,これより以前,どの時点で空間の感覚が生じているかについて,クラインは触れていない。

妄想・分裂ポジションの万能的世界においては,内も外も区別がついていないのだから,子宮の中にいる時と同じで,乳児の空想に空間というものは存在しないのではないか。しかし生後半年,母親をひとりのまとまった対象とみられるようになる抑うつポジションの時期に,完璧だと思っていたおっぱいは自分と一体ではない,互いが「別々」であることを様々な切ない感情と共に知っていくわけであるから,対象との間に距離が生まれているはずである。だとすれば,抑うつポジションの局面,やはり,この辺りで時間と同様,空間概念が生まれているのではないかと考えられる。

仮に,乳児は抑うつポジションへの移行にあたり,万能感を手放し,「対象と自分は別だ」と知り,対象との分離の認識を経て,空間が生じてくると考えれば,このクラインの考え方と,岸田氏の「自分ではないものを押し込めるために空間を創造した」とする二人の視点の先には同じ現象が存在し,その考えには重なっている部分があるように思う。

また,ここで私はウィニコットが,乳児には,私 me と,私でないもの not meの区別がついていない,としていたのを思い出した。私と,私でないものの区別がついてくるのは,耐え難い。普段の生活でも,人が自分と同じ考えではないことを知り,それを受け入れなければならないのは辛いことである。その耐え難さに持ちこたえるために,距離をとるという防衛は起こりうることであり,そのために時間と共に空間も必要とされたという岸田氏の考えには,それなりの説得力があるように思う。

(ちなみに,ビオンは,「思考(コンテインド)」が考えるための装置(コンテイナー)の発達を促し,悪いおっぱいという幻覚の代わりに,「不在のおっぱい」を考えられるようになると,悪いおっぱいが幻覚されていた場所に「内的な空間」が生じ,さらに「今はおっぱいは不在である」と考えられるようになり,ここで時間が生まれる,としている。)

最後になるが,岸田氏は,B.グランベルジュが,「汚い」「臭い」とは自分以外のものにつける形容詞である言っていることを取り上げている。くすっと笑った。自分と同じ種類の汗の臭いに人はあまり不快を感じないというから,確かにグランベルジュの言うことは当たっている。