斎藤環著『「自傷的自己愛」の精神分析』を読んで
本書は,斎藤環氏が引きこもりに多く見られる「自分をディスり続ける人たち」の心の状態を「自傷的自己愛」という概念によって説明したものである。以下,『「自傷的自己愛」の精神分析』を読んで,気になったところをまとめてみる。
自傷的自己愛は自己愛のねじれ
自傷的自己愛という心の状態は引きこもりの人達に多く見られる心性である。彼らは自分たちを「コミュ力が低い」「友達がいない」「不細工だからモテない」「生きている価値がない」とディスる。こうした自己否定的な言葉を口にすることで彼らは自分を傷つけているように見える。
こうした彼らの心の根底には強い自己愛があり,彼らは怒りや不安,過度の緊張や気分の落ち込みから自分を守るために,自分を傷つけている,こうした人々は自己愛が強く,自己愛の発露としての自傷行為ではないか,なぜなら,彼らは自分について,自分がどう思われているかについていつも考え続けているからだ,
思春期/青年期において,こうした自己愛のねじれとしての自傷的自己愛は病理ではなく,ごくありふれた感情であるが,これらが何らかの事情で追い詰められて自暴自棄になると拡大自殺のような通り魔殺人などに発展することもある。
プライドは高いが自信はない
こうした人々の共通点は「プライドは高いが自信はない」。プライドというのはかくあるべきという自分であり,自信は今の自分に対する無条件の肯定的感情である。かくあるべき自分というものに達していない自分を認めることができず,ディスっているのだ。
彼らは「自分のことは自分が一番分かっている」「自分は自分をだめなにんげんなんだとちゃんと客観視できている。その考えまで否定されたくはない」という考えのもとに暮らしている。だから,それを否定しても耳を貸さない。
彼らが受診しないのは,プライドの高さ故であり,彼らの無力感の修正が効きづらい。というのも,自己否定は承認を求めるアピールでもあるが,自傷的自己愛は徹底して対人関係が閉じているために,最も完結した自己愛と考えることもできるが,対人関係が閉じているために,無力感も修正されにくい。
また自己否定的であるために,他者からの好意に対して鈍感になりやすく,築いても自分で否定しがちである。また逆に自傷的自己愛を持つ人が他者から向けられた好意を過大評価して,「こんな自分でも愛してくれる貴重な他者」として執着してしまうこともある。そしてこの他者が期待に応えてくれないと,逆に激しく攻撃したり,ストーカーめいた振る舞いをすることもある。
家族との関係
自傷的自己愛者の家族関係はあまり良好ではない。当事者にとって家族は自分の一部のようなものであるために,家族への攻撃も自傷行為的なニュアンスを帯びやすい。一方で,非常に遠慮がちに「申し訳なさ」でいっぱいになってしまい,無欲化してしまうタイプもいる。
無欲化したタイプは将来的に親が亡くなった時に孤独死へと繋がる危険がある。「親御さんが亡くなった後の生活について考えてみよう」と促すことが必要だが,「親が死んだら自分も死ぬからいいです」となりがちである。
自傷的自己愛の起源
その起源として一番多いのは歪な親子関係,いじめを含む思春期の被害体験である。自傷的自己愛はトラウマ的な経験から生じたネガティブなキャラを内面化してしまい,そのキャラに嫌悪を向けることによって生じる。
養育環境のひどさやトラウマがなくとも,長期間引きこもっていると,多くの人が退行的になり,結果として自傷的自己愛を抱えることもありうる。そして自傷的自己愛は後述する承認依存とも言える社会や文化と言った背景からは誰にでも起こり得る状態である。
自傷的自己愛にはそれなりに健康な自己愛も透けて見える,ここからはある時期までは健康に発達してきた自己愛が主に思春期以降に身近な重要人物(男性の場合は学校や職場でのいじめをはじめとする尊厳の傷つき,女性の場合は母による支配的親子関係…それは献身という形で与えられることもある)に傷つけられることで生ずるねじれから自傷的自己愛が生まれるのではないか。その点で愛着障害ほど深い病理性は持っていない。
自傷的自己愛のメカニズム
彼らは「自分自身でありたい」という感情(自己愛)を強く持っている
↓
それ故に今の「だめな自分」を受け入れられず,自分自身を否定して,攻撃して傷つける
↓
その攻撃・痛みによって,本当の自分を守ろうとしている(=自己愛を保とうとしている)
しかし,否定している「だめな自分」は本来のその人自身ではない。「だめな自分」というキャラを(勝手に)想定して,それを言葉によって攻撃し傷つけているだけである。
変化への不信
若者の多くは「今後,自分が成長するはず」という考えを持てない、自分に変化なんて起きるわけがないと考えがちである。もう少し自分の伸びしろや変化を信じることができれば,もう少し楽に生きられるのではないか。
承認依存
現代の若者はコミュニケーションと仲間からの承認依存が幸福の条件となっている。そのために対人ストレス耐性が下がっており,職場ではちょっとした注意やや批判が「承認の撤回」「負の承認」となり,傷つきのストレスからうつ状態を呈しやすくなる。
健康な自己愛
コフートによれば,自己愛にとっては,家族以外の他者からの持続的な支持が大事であり,精神分析による治癒を「成熟した成人のレベルでの自己と自己対象の共感的調和を確立すること」としており,おそらくこれを健康的自己愛の状態と考えることができよう。
そして,中井久夫氏は「自分が世界の中心であると同時に世界の一部に過ぎない」という一見矛盾した認識が両立している状態を健康な精神の在り方としている。そして,前者は親子関係の中で,そして後者は学校や職場といった家族以外の人間関係の中で培われるものである。
ストロロウは,統合された自己イメージが安定性を保っており,肯定的な感情に包まれているような状態を維持できている状態を健康な自己愛と見なしている。
自己愛とは自分が自分でありたいという欲望であり,自分が好きも嫌いも分からないもすべて含まれる。また,キャラと身体が一致している場合に最も安定すると言える。
健康な自己愛というのは単純な自己肯定感だけではなく,それを批判的に俯瞰する自分も必要である。成熟した自己愛を構成する要素には,自己肯定感だけではなく,自己批判,自己嫌悪,プライド,自己処罰と言った様々な要素が含まれ,自己愛とは自分でありたいというポリフォニックな(異質なものの,調和に依らない共存)欲望のプロセスである。
自傷性の緩和
- 尊厳を傷つけるような環境に身を置かないようにするために,周囲に相談したり,最終的には距離をおくこと,
- 家族以外の対人関係を築くようにすること(今ある関係はできる限りキープ),
- 健全な被害者意識をもって,自分が被害者である可能性を頭にめぐらし,あえて損得勘定で考えて自分の特になることをする
- 「やるべきこと」ではなく「やりたいこと」をすること,
- 身体のケアをすること・・・を推奨する。
「他者に配慮しつつ,自分の言いたいことはしっかりと言う」というアサーションの考え方は自己愛の健全さを図るものともなる。だとすれば,安心できる環境で,アサーティブな対話を経験することが自傷的自己愛修復のとっかかりになるのではないか。
この後は推奨される「対話」のひとつとして,斎藤氏の推奨する「オープン・ダイアローグ」という治療技法が紹介される。オープン・ダイアローグとはアメリカで統合失調症の治療として導入されたものだが,それが自傷的自己愛の人達にも有効であろうという話であった。
感想
人を傷つけるのは人だが,人を癒せるのも人,病んだ心が回復するにはもう一つの心(他者)が必要となるということは常々考えていることである。この点においては,「安心できる環境で,アサーティブな対話を経験する」という斎藤氏と同意見であった。
引きこもりの人の自己愛が過剰であるという認識は臨床の場にいれば誰でも持っているものだと思う。そして彼らが自分たちを「クソ」だの「ゴミ」だの「社会の最底辺に属する」と思っており,自己卑下が激しいこともあるあるの体験である。しかし,そこに「自傷的自己愛」という概念をはめこんでくるのは,いつもながらキャッチーなワードで執筆を行っておられる斎藤氏ならではだと思う。
精神分析の知見の中で自己愛の病理は,ローゼンフェルドによって「厚皮の自己愛」「薄皮の自己愛」と二つのタイプに分けられている。しかし,これは臨床像として誇大な自己感を矮小な自己感のどちらが前景にあるかということにすぎず,厚皮の自己愛の背景にはスプリットされた薄皮の自己愛が,そして薄皮の自己愛の背景には厚皮の自己愛が存在しており,切り離して考えることはできないと思う。また,DSM的な記述的診断基準を参照してしまうと,厚皮の自己愛は自己愛性パーソナリティ障害にほぼ当てはまるように思うが,薄皮の自己愛はパーソナリティ障害の中で言えば,むしろ回避性パーソナリティ障害に近いようにも思う。
そして,引きこもりの人たちを思春期心性の自己愛のねじれが強く出た形であるとひとまず捉え,疾患として捉えないということに異論はない。しかしながら,それが30代,40代と長期化してくれば,そして本人,周りが困っているのであれば,それはやはりパーソナリティ障害として捉えても良いように思う。
診断名がついたから,つかないからといって,何が変わるわけではないものの,今の自分の状態を「病気」(少なくとも健康な状態ではない)と捉えられるようになることで,本人が薬物療法を試してみようと思うきっかけになったりするのではないかと思う。
また,安全な場所でのアサーションの体験ということでは心理療法・カウンセリングはその最たる場であると思うのだが,引きこもりの人達は本当に心理療法の場に現れることは少なく,現れても数回で断念してしまうことが多い。
斎藤氏の言うように「変化への不信」が強く,また現れても「うまく話せない自分」に耐えられずに,彼らは私たちの目の前から去ってしまう。
ちっとも上手く話せてないことはないのだが,本人はそう感じてしまう。それは,「こうあるべき自分」「もっとうまく話せる自分」とマッチしていないためである。客観的にはそれほど上手く話せてないわけでもなく,完璧であること(本人たちは「完璧なんて望んでいない,自分はマイナスの位置にいるから,せめてゼロの位置を目指してるだけ」と言うのだが)を目指しているがゆえに,面接室での自分を許せないのである。
それこそが自己愛のねじれだということ,そして変化は可能であるということ,本書がそういうことに当事者が気づいてもらえる一助になるのであれば,それは望ましいことである。