理想化の果ての自我の枯渇について

1970年に出版されて以降,英国では重版されロングセラーとも言えるI・ザルツバーガー‐ウィッテンバーグ著『臨床現場に生かすクライン派精神分析――精神分析における洞察と関係性』の中にあった迫害不安に対する防衛の説明の中で気になった「理想化」がもたらす弊害(判断力の貧困化,感情の平板化,自己と他者についての認識の欠如)について抜き出してみました。

理想化は続かない

迫害不安に対する防衛としての理想化はある程度までは健康なものであるが,最終的にはうまく機能しなくなる。理想化された対象は,求める期待に添わないときにはすぐさまはんたいのもの,迫害的な恐ろしい対象として感じられます。そして「理想的」でいるという要請を満たす人間などいないので,それはいつか破綻するのだと。

理想化という錯覚から覚める痛みに耐えること,そして,その錯覚から覚める痛みを耐えることができないと,「理想的な誰か」「理想的な何か」がどこかに存在しているという信念にしがみついてしまうのだと。仕事やパートナー,友人,住居を頻繁に変えることになる,理想の追求にみのりはなく,失敗に終わる運命にある。

理想化が招く末路

現実と現実がつきつける限界に取り組まないでいると,問題の解決法を見つけたり,問題に取り組むのに自分の能力を使うことが妨げられ,他人が答えを出してくれると期待するようになり,判断力の貧困化,感情の平板化,自己と他者についての認識の欠如が生じる。これらはすべて個人の中にある破壊的感情を取り除いたり,ぼやけさせる試みであり,常に葛藤状態にある二つの欲動を持った自己や他者を理解すること,愛情と憎しみが混ざり合った複雑な感情の生成を妨げる。

感想①万能的世界の空想 

以前,抑うつ不安に対する防衛としての躁的防衛について考えていたときに,躁的な万能な世界で生きていられるのなら,それもひとつではないかと考えたことがあった。本書でも,躁的防衛は抑うつ不安から離れ,陽気さや軽率さへと逃げ込んでおり,配慮や気遣いがないことが無神経さに繋がり,時に他人の命や財産,感情の価値を否認するという精神病質的行動へとつながるともされていた。これらを読むと,抑うつ不安,迫害不安に対する防衛のどちらもが,病的な状態へと繋がってくるということが分かってくる。

マイルドな理想化は前向きな人生を歩むのに役立つものであるし,理想化がなければ人が恋に落ちることもないし,推し活が人生を豊かにしてくれることもない。しかし,それが強烈すぎるとやや話は変わってくる。

過剰な理想化が長く続けば,自己の良い部分は対象に投影され,自己はどんどんと枯渇していく。そうすると判断能力は欠如し,感情が平板化し,自己と他者の認識が欠如していくのも当然のメカニズム。

子どもを飲み込むタイプの親の強烈な支配下や,宗教などの洗脳下では,子どもは親を,信者は教祖を理想化している。そして,どっぷりと浸かれば浸かるほど,人は判断能力を失っていくし,感情は平板化し,相手の意見が自分の意見になるし,自分が考えたことは相手も考えることとなるであろう。

感想②現実を正しく捉える,理解すること

やはり,目の前で起きていることを可能な限り正しく捉える,理解するということは生きていくうえで極めて大事なことである。ポジティブな出来事は比較的,心に抱えやすい(これすら自虐的な人には難しいものだが)。しかし,辛い現実は見たくもなければ,逃げたくもなるし,「どうして」「なんで」と受け入れを拒みがちである。しかし,その現実も現実。辛い現実は辛い現実として,哀しい現実は悲しい現実として,心の中に受け止める,それが大事なようである。

感想③成熟した部分との作業

最後にひとつ,気になった一文。本書では「心理援助者が依存を奨励しないこと」の重要性を挙げていたが,そこで「クライエントの弱い部分,苦悩した部分,あるいは法を犯すような部分が,クライエント自身によって見つめられ,抱えられ,統合されるのは,心理援助者がクライエントの成熟した部分とともに作業するという文脈の中においてである」というところ。過度に,長期間にわたり理想化されれば,それは羨望をさらに引き起こすという記述とも合わせて覚えておきたい。

本書の紹介

本書は「臨床現場から出発し,臨床現場で起こることと真に結びつき,それに役立つ理論を提示しようと試みている」と監訳者が書いておられる通り,たとえば第一部ではクライエントやセラピストが面接に持ち込む期待や怖れといったことからその関係性を描き出し,第二部では面接に持ち込まれる迫害不安,抑うつ不安,喪失に関する不安,賞賛と羨望,第三部では洞察と治療的相互作用,それに伴う責任と負担などを取り上げている。理論から入るのではなく,まさに臨床現場で起きることを起点に理論を説明しているので読みやすいものであった。