ギリシャ神話「ウラノスとガイアの物語」|過剰な融合と象徴化
今回は,Wolfgang Lassmann著『Lost to Desire: The École Psychosomatique de Paris and its Encounter With Patients Who Do Not Thrive 』の 第5章 Basic Mechanisms 1: Nicos Nicolaïdis ”を参考に,精神分析家 Nicos Nicolaïdis の「過剰な融合が象徴化を阻害する」という考え方についてまとめてみたものです。
ウラノスとガイアの物語:天空と大地の結合と最初の支配
ギリシャ神話におけるウラノス(天空の神)とガイア(大地の女神)の物語は,世界がどのように始まり,神々がどのように世代交代したかを示す,最も根源的な創世神話です。この物語は,詩人ヘシオドスの『神統記』(松平千秋訳,岩波文庫,1956年)などで語られています。
1. 原初の誕生
世界の始まりは,何もないカオス(混沌)でした。このカオスの後,原初神と言われる,ガイア(広がる大地の神),タルタロス(地の底の暗黒の深淵の神), エロス(結びつける愛・生成の原理の神)が生まれました。
ガイアは,愛の神エロスなどが誕生した後,自らの力だけでウラノス(天空の神),オウレア(山の神),ポントス(海)を産み出しました。ウラノスは,大地であるガイアを全方向から覆い被さるように存在し,天そのものを神格化した最初の支配者となりました。
2. 子どもたちとウラノスの嫌悪
そしてガイアは,息子のウラノスと結ばれ,次々と多くの子を産みます。
- ティターン神族(12柱): オケアノス,クロノス,レアなど,後の主神ゼウスの父母となる強大な神々。
- キュクロプス(一つ目の巨人): 雷などの自然の力を司る3人の巨人。
- ヘカトンケイル(百腕の巨人): 100本の腕と50の頭を持つ3体の怪物。
しかし,父であるウラノスは,後に生まれたキュクロプスやヘカトンケイルの異様な姿を嫌悪し,光の下に出すことを拒みました。また,彼らに支配されることを恐れたウラノスは,彼らを大地(ガイア)の奥深くにある冥界の奈落タルタロスに閉じ込めてしまいます。
3. ガイアの復讐とウラノスの失脚
タルタロスに子どもたちを閉じ込められたガイアは,その重荷と痛み,そして怒りに苦しみました。ウラノスへの報復を決意したガイアは,自ら作り出した硬い石(アダマス)の鎌を子どもたちに示し,父を討つよう呼びかけます。
他の子どもたちが恐れをなす中,末っ子のクロノス(後の時間の神)だけが名乗りを上げ,ガイアの計画に同意します。
ある夜,ウラノスが妻ガイアに覆い被さるようにして交わろうとした際,待ち伏せていたクロノスが鎌でウラノスのペニスを切り落とし,海に投げ捨てました。
4. 新たな神々の誕生
この凄惨な行為の結果,ウラノスの血や体の一部から,新たな神々が誕生しました。
- 大地(ガイア)に滴り落ちた血からは,エリニュス(復讐の女神),ギガンテス(巨人族),ニュンフメリアス(トネリコの木)が生まれました。
- 海に投げ捨てられたペニスの周囲にできた泡からは,愛と美の女神アフロディーテが誕生したとされています。
ウラノスが切り離されたことで,天と地は分離し,クロノスが新たな世界の支配者,神々の王となりました。しかし,ウラノスはクロノスに対し,「お前もまた,自分の子によって王位を奪われるだろう」という呪いの言葉を残します。これは,次の世代の支配者であるクロノス,そしてその息子ゼウスへと続く,ギリシャ神話の世代交代の連鎖の始まりとなりました。
ガイアとウラノスの融合と分離を心理的に読み解く|Nicolaïdis の分析
この物語は,秩序と混沌の対立,権力の抑制と反抗のサイクル(抑圧的な親が子に反抗され,権力を奪われるというサイクル)・権力にしがみついたことの代償/世代交代の宿命などといった普遍的なテーマが描かれていると紹介されます。
この物語では,融合状態にあるガイアとウラノスは,互いに過剰に接触しており,分離の余地がほとんどありません。そして,象徴化や創造性の循環は阻害され,世界は停滞してしまったのです。
神話を心理的・象徴的意味を持つものとして読み解こうとしたNicos Nicolaïdis は,この物語について次のように考えました。
ガイアとウラノスの融合状態は,心理的に「過剰に充填された」状態の比喩であり,母と子の過剰な「存在」(=密着)と捉え,分離の余地がないままでは,象徴化や創造性のための心的空間が阻害されることを示唆しました。
そして,心の内的世界が生成されるためには,この融合状態を打破し,両者が分離されることが,象徴化や創造の契機になると解釈しています。
彼はここで母と子の「過剰な融合」という言葉を使っています。自他の境界のないこの状態は,クラインの理論で言えば,自他が「万能的に融合」した妄想-分裂ポジションの状態とも言えるでしょう。
切断と分離がもたらす心的生成|創造性の誕生
世界の停滞を憂えたガイアは,息子のクロノスを通して,ウラノスにNOを突きつけ,去勢を命じます。ウラノスはそれを成功裏にやり遂げ,そこに天と地の分離が生まれ(境界の設定),新たな神々が生まれます。
つまり,過剰な融合状態からの切断によって,分離が生じ,新たな心的生成の契機となっています。ここで,象徴化のための心的空間が生まれ,思考・時間・創造性の循環が可能になり,心理的発展を促進されるのです。
心理学的には,ここに分離と境界設定の重要性が示されています。
過剰な感覚刺激も象徴化を阻む
Nicolaïdis によると,過剰な感覚刺激も象徴化や創造性を阻むことを示唆しています。
私の分析臨床においても,過剰刺激に圧倒されている状態の患者さんは,心の内的空間が圧迫され,象徴化や思考の生成が阻害されることがあります。Nicolaïdis は,この神話的イメージを通じて,心理的過密状態の象徴的理解を提案しており,こうした視点は,感覚過敏などによって過剰な刺激に苦しんでいる患者さんや母子密着で心理的結合に圧迫される状況に苦しむ患者さんを理解する際に,有用なメタファーとなります。
まとめ|融合と分離が示す心の生成モデル
ガイアとウラノスの神話は,過剰な融合による閉塞と,分離による創造の契機を比喩的に描いています。Nicolaïdis の精神分析的解釈は,この神話を通して,象徴化や心的空間の生成,分析的介入の意義を理解する手がかりを提供します。
過剰な融合を認識し,分離を可能にすることが,心の創造性や象徴的思考の基盤となります。心の中の「過剰刺激」と「融合状態」を理解することは,分析臨床や日常の心理的発展にも応用できる考え方です。
Nicos Nicolaïdis とは
ニコ・ニコライディス博士(Dr. Nicos Nicolaïdis, 1927-2016)は,スイスのジュネーブを拠点としてフランス語圏で活動した著名な精神科医であり精神分析家です。
ジュネーブ大学の精神分析学名誉教授を務め,スイス精神分析学会の正会員として活躍しました。彼の研究は,表象(La Représentation)や欲動(La Pulsion)といった精神分析の基礎概念を深く探求したことで知られています。特に,言語と精神発達の関連性を考察した著書『Alphabet et psychanalyse : suivi de Une séance de supervision avec Jacques Lacan』(アルファベットと精神分析――ジャック・ラカンとのスーパービジョン記録/2001年,L’Esprit du Temps社)には、ジャック・ラカンとのスーパービジョン記録が収められています。
さらに,彼は自身のギリシャ系のルーツも背景に,妻のグラツィエラ・ニコライディス氏と共著で『Mythologie grecque et psychanalyse』(ギリシャ神話と精神分析/1994年,Delachaux et Niestlé社)を出版するなど,神話と精神分析理論の関連性についても重要な貢献を残しました。国際心身医学会会長を歴任するなど,臨床と理論の両面から多岐にわたる功績を残した人物と言えます。
※本記事は,精神分析家 Nicos Nicolaïdis の視点を中心に,Wolfgang Lassmann著『Lost to Desire: The École Psychosomatique de Paris and its Encounter With Patients Who Do Not Thrive 』の 第5章 Basic Mechanisms 1: Nicos Nicolaïdis ”を参考に構成しています。内容は原著の解釈に基づく要約および私見です。
参考文献
- ヘシオドス『神統記』(Theogony), 松平千秋訳,岩波文庫,岩波書店,1956年
- Wolfgang Lassmann, Lost to Desire: The École Psychosomatique de Paris and its Encounter With Patients Who Do Not Thrive , Routledge, 2020
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