変容惹起解釈を阻む患者-治療者間の超自我の融合

R.ケイパーの「変化をもたらす解釈をすることの難しさについて」(『米国クライン派の臨床――自分自身の心』2011収録)で,ケイパーは,分析家が身を置くのは原始的超自我の世界に不可欠な承認・不承認の世界ではなく,現実を公平に評価する世界である,しかし投影された患者の超自我が分析家の自我が自己愛的に融合してしまうと,それが分析家の自我と置き換わってしまい,分析家の知性は一時的に見失われ,本来科学的な探索(ビオンのK)であるはずの分析が,道徳的営みとなり,真の作業関係を阻み,変容惹起的解釈(Strachey,1934)が困難になるということを主張している。ここでは,本論の気になった部分についてまとめてみる。

患者と治療者間の自己愛的融合

患者から投影された原始的超自我が治療者のそれと混じり合い,分析家の自我と置き換わってしまうことで,分析家は現在進行形の心の状態を細やかに感じ取ることに注力できなくなる。「両者の原始的超自我が自分の自我機能を攻撃することによって,そうなると分析家は「解釈が二人の関係をダメにしてしまうであろう」と考えてしまう。そして,治療者の機能は減弱し,セッション後よりもセッション中に考えることがいっそう難しくなり,変容惹起解釈は難しくなる。つまりここでは両者の自己愛的融合が生じている。

基底的想定との類似

患者と分析家の超自我の融合はビオン(1961)の集団における基底的想定の心性と類似している。この状態の集団においては,躁的な暖かさの感覚があり,批判的思考能力が低下する。そして,ここには特定の作業なしに問題が解決するかのような心が麻痺した状態がある。多幸感が過ぎ去り,現実問題が存続し続けると分裂と責任転嫁が起こる。
基底的想定集団と対比するのはワーキンググループであり,この集団は多くの相異なる集団から成り立ち,コンテイナー理論はこの集団を想定している。しかし,変容惹起的解釈が難しいという感覚がコンテイナー理論で説明不能なのは,この感覚が生じる時には治療者と患者が基底的想定グループを構成してしまっているからである。

治療者が一時的に知性を見失う(自我機能が停止する)理由とその脱却

原始的超自我の影響下では思考や理解は困難になる。自分や他者に関する本当のことを単純な事実として経験できず,非難の根拠としてのみ経験する。つまり,考えることは非難となる,したがって,非難による攻撃に対抗するには知性を見失い,適切な解釈について考えられないようにするしかない。

では,いかにしてアルファ機能を取り戻すのか。考えることができるようになるには,ベータ要素をアルファ要素に変換することが必須であるが,ベータ要素に不変なのは道徳的な構成要素であり,それは罪悪感や責任感と不可分である(Bion, 1965)。そのため,アルファ機能を機能させるには,この原始的超自我の支配から脱却し,それを自我のもとに移すことが必要となる。
つまり,分析は安心感を与えたり,自分を良いものと感じさせたりすることではなく,彼が本当のこととは何かを考えて感じることができるように注力し,手伝うことである。分析家は解釈に抱く道徳的含蓄を打ち捨て,目にするものを怖れや好意抜きに,ただ単に自分が患者について経験していることを可能な限り現実的に患者に描写することで,自分と患者の超自我の組み合わさった力から自らを解きほぐすのである。
つまり,ストレイチーが分析家の機能として挙げた「補助超自我」は,実際には分析家の自我である。分析家の自我は,自分の蒼古的超自我が生じさせる罪悪感や不安と取り組むことで,変容惹起解釈をしなければならない。。

原始的超自我こそが超自我

原始的超自我こそが超自我であり,成熟した超自我は自我であるとも言える。分析は良い超自我も悪い超自我も促進しない。分析家は良い親にも悪い親にもなるべきではなく,分析家であろうと努力するのみである。
本当のことは常に空想よりも迫害的ではない
空想は本当のことを心から追い出してしまう。分析家は本当のことを見出すことのみに注力し,本当のことがすべてあきらかになるとき,人は安心する。

ビオンにおける真実(本当のこと)

ビオンは本当のことや現実検討が患者の自我の発達をもたらすと感じており,分析が物事の本当のことに到達しようとしているという事実に価値を見出していた。「変形」(1965)では,分析家は患者の人生を管理することではなく,患者が自分の見方に応じて管理できるようにすることを目的とし,それゆえに彼の見方が何であるかを知ることを目的としている。したがって,道徳的含蓄を含む解釈は分析的意味では偽りである。

分析家が供するもの

ビオンはアルファ要素を本当のことと関連付けているように思われる。アルファ要素はは自我を育む精神的要素で,内的現実と外的現実についての事実を自我に供しているが,ベータ要素は現実的でも事実でも本当でもなく,何らかの目的を見据えて観客の情緒に働きかける宣伝活動家的である。
分析家は,単なるベータ要素の別の源である「補助超自我」ではなく,患者の蒼古的超自我のベータ要素活動に対抗し,彼自身の自我が現実との接触を維持することを援助するための「補助自我」である。
分析家は適切な解釈をするためには,患者の自我と蒼古的超自我の葛藤に巻き込まれるなかで自身の自我と超自我との間の葛藤をワークスルーすることによって,葛藤や不安に立ち向かう必要がある。それを通して,患者が本当のことについて考え,感じるのを手助けするという分析の目的が達成される。
本当のことは,精神的に生き残るために不可欠であり,本当のことは蒼古的超自我の先にあるものではない。
ベータ要素を現実検討(科学的思考)に適した何かにアルファ機能でもって変換するのであれば,その機能の一側面は変容惹起解釈をなそうと準備している分析家のしていることである。

感 想

本論では分析家が患者の超自我として機能している限りは,分析は機能していないことがよく分かる。
また成熟していない心に道徳的な考えが大きく作用してしまうことについても,ベータ要素が道徳的要素と密接な関連にある,ということで説明がつくであろう。たとえば,強迫性障害が多くの精神疾患に併発することや,発達障害の人たちに強迫的,特に道徳心や正義感の強い人たちがいることもこのベータ要素と関連するのかもしれない。だとすれば,分析的心理療法によって「考える力」をつけることができればこの強迫的傾向も少し緩まる可能性があるのかもしれない。


Caper, R. (1995). On the difficulty of making a mutative interpretation. The International Journal of Psychoanalysis, 76(1), 91–101.