三宅香帆著『考察する若者たち』から考える——最適解を探し続けるという生き方
三宅香帆氏は著書『考察する若者たち』の中で,若者たちの「考察」人気という現象を取り上げ,彼らが自分らしさや個別性を探すのではなく,「報われること」を目指して,その場に応じた「最適解を探す」という生き方をしていると指摘しています。
今回は,この指摘を起点に考えたことについて書いてみたいと思います。
三宅香帆が語る「プラットフォーム社会」と最適解
本書の中で三宅氏は,いくつかの作品の登場人物を手がかりにしながら,若者たちが「最適解を探す」生き方を描き出しています。その場に合わせてキャラクターを最適化していくほうが合理的であり,報われやすい。
そういう状況において,自分の欲望や個別性は最適解からのズレとして扱われやすい。
つまり,「自分らしさ」は最適解を求める生き方においては,むしろ邪魔になる…と。
さらに,いまはアルゴリズムによって「おすすめ」が提示される時代であり,自分が何を好きかをじっくり考えなくても,最適解は自然に差し出される,とし,彼女はこうした状況を「プラットフォーム社会」と呼んでいます。
これ以外にも,現代の文化的特徴に数多く触れている本だったのですが,現代において,特にこの「自分らしさ」は望まれていないというところには関心を持ちました。
彼女の言う通りだとすれば,若い人に限らず,確かにいまの人たちは,あえて自分が普段何を感じて暮らしているのか,自分が何を好きかなんてことも探す必要はないわけです。
バックパックを背負って自分探しの旅に出る必要もなければ,自己理解も必要ないのです。
ところが一方で,就活現場では「自己理解」が執拗に叫ばれ,巷ではMBTIのような,自己理解を深めるための性格タイプ診断がこれほど流行しているのはなぜでしょうか。
三宅氏は,MBTIのような診断ツールの普及について,MBTIは人間の性格そのものをジャッジする指標の提供であり,自分らしさを探すよりも16タイプで適性を理解するほうが手軽だからこそ受け入れられていると述べています。
そう考えると,MBTIブームは「自己理解の深まり」ではなく,むしろ最適解探しと地続きの,キャラ探しの一環なのではないかと思います。自分の内側をじっくり掘り下げるのではなく,与えられたタイプに自分を当てはめることで,「私はこういうキャラ」と手早く決着をつける。それは,プラットフォームがおすすめを差し出してくれるのと,構造としてはよく似ています。
「多様性」という言葉が蔓延して久しいにもかかわらず,実際の若者たちの生き方は,むしろ最適解を求めて均質化へと向かっているように見える。この逆説は,いったい何を意味しているのでしょうか。これについてはまたいつか書いてみたいと思います。
既存のカテゴリーに自分を分類する「ラベルとしての自己理解」は,いわば自分をわかりやすい商品として消費する行為に近いかもしれません。
しかし,本当に生き抜く力になるのは,既存の枠にはまらない自分を言葉にしていく「生成的な自己理解」ではないでしょうか。
「界隈の常識」に合わせて最適解を探す人たち
彼女は,ラベルから外れないように,最適解を求めて生きる若者たちを描出した作品として,村山紗耶香著『世界99』や,高松美咲著『スキップとローファー』を取り上げています。
『世界99』の空子は,自分が身を置く世界(界隈)ごとに相手に「呼応」して,キャラクターを演じ分け,ズレないよう,排除されないように振る舞い続けた結果,ついには「自分を保つ」ことではなく,自分を解体することを選びます。
『スキップとローファー』では,周囲に過剰に最適化しようと,キャラを演じつつ日常生活を送る高校生たちが描かれています。しかし,その言動は時に自分の思いとは異なるものとなっていることが,心の声と共に描かれます。
以前このブログで取り上げた西加奈子の『舞台』の主人公・葉太もまた,同じ必死さを抱えた人物です。自意識過剰になりながら「正解」を求めて行動しようとするのですが,人の目を過剰に気にするあまり,思うように振る舞うことができず,そのこと自体が生きづらさになっていく。
形は違っても,そこに共通してあるのは息苦しさを覚えるほどの必死さです。どの人物も,「自分らしくいたい」からではなく,界隈の常識から外れないために,最適解を探し続けています。
そしてこれは,フィクションの中だけの話ではありません。このブログでも取り上げた「正解探しをしてしまう」心理や「間違えたくない」という心理も,結局は最適解探しの一形態だったのだと気づかされます。
評価されること,排除されないこと,その場の空気を壊さないこと
―—そこには,「外れたら終わるかもしれない」という切実な恐怖がある。
「自分らしく生きる」は,
いまも有効なのか
これまで私は「自分らしく生きる」ことを前面に掲げてきました。
しかし,自己理解も自分らしさも必要ないという社会の流れの中で,それは時代遅れな言葉になってしまったのでしょうか。
三宅氏は,こうした最適解社会においてこそ,答えのある「考察」ではなく,自分だけの感想としての「批評」が重要になるのではないか,と述べています。
正解に回収されない言葉。
最適解に最短距離で向かわない感想。
「私はこう感じた」と言葉にすること。
―—それは,最適解に呑み込まれきらないための,小さく,しかし確かな主体性なのだと思います。
自己理解を進める臨床の場でも同じようなことを感じます。
正解のない自分だけの言葉を持つことは,まさにカウンセリングの中で行われるプロセスそのものです。
自分が何を感じ,何を考えているかを知ることは,一朝一夕にできるものではありません。
日々,何を感じ,何を考えているかを真摯に言語化する丁寧なプロセスを経て分かっていくものです。
そして,自己理解は,それは単なる気休めではなく,「自分という人生の主導権」を取り戻すために欠かせないものだと思います。
おわりに
いまは,「自分らしさ」を目標に掲げる時代ではないのかもしれません。
それでも,ただ周りに合わせて最適解を探し続けるだけで,これほど大変な世界を生き抜いていけるのだろうか,という心細さをどこか感じてしまいます。
最適解を探し続ける必死さを,否定する必要はありません。
ただ,その必死さのなかで,ときどき立ち止まり,
「私はこう感じた」と言える場所,そこに主体性と言えるようなものを残しておくこと,
そして,自分が感じたこと,考えたことを大切にすることは止めないでいる方がよいのではないかと思うのです。
それがどんなふうに,これほど大変な世界を生き抜くことと,結びついているのか
―—それについてはまだ私自身も考え続けている最中で,答えに辿り着いてはいません。
ただ,それでもなお,自分が自分であることを手放さないでいることには,何か確かな意味があるように思えます。

『考察する若者たち』
三宅香帆 (PHP新書)なぜ映画を観たあとすぐに考察動画を見たくなるのか?
映画やドラマ、漫画の解釈を解説する考察記事・動画が流行している。
昭和・平成の時代はエンタメ作品が「批評」されたが、令和のいまは解釈の“正解”を当てにいく「考察」が人気だ。
その変化の背景には、若者を中心に、ただ作品を楽しむだけではなく、考察して“答え”を得ることで「報われたい」という思考がある。
30万部超『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』著者が令和日本の深層を読み解く!(amazonから引用)

