価値観の違う人と関わる意味とは?
「価値観の違う人と,どうしてわざわざコミュニケーションをとらなければならないのか?」
現代社会では,多様性が求められる一方で,「違う人と関わることのしんどさ」を感じる場面も多いのではないでしょうか。この記事では,精神分析的な視点から「価値観の違う他者との関わり」について考えてみたいと思います。
「違い」は避けて通れない
『生きづらさについて考える』内田樹著に次のようなことが書かれていました。
日本の学生に際立って欠けているのは,一言でいえば,自分と価値観も行動規範も違う他者と対面した時に敬意と好奇心をもって接し,困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。しかし,生きていく上で極めて有用かつ必須であるそのような意欲と能力を育てることは,日本の学校教育においては優先的な課題ではありませんでした。
学校で子供たちが身に着けたのは,価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られたゼロサムゲームを戦うこと,労せずしてコミュニケーションできる身内と自分たちだけに通じるジャーゴンで話し,意思疎通が面倒な人間は仲間から排除することである。それを学校は勧奨したとは言わないまでも,黙許してきました。
私個人としては,この内容について,至極納得であるし,賛同するのですが,おそらくこの内容について,お若い皆さんからは,どうしてそこまでして価値観の合わない人とわざわざ関わらなければならないのかといった疑問がわいてくるものと推測します。
まず大前提として,「無理に関わる必要はない」と私は考えます。自分の価値観を大切にし,自分らしく生きることはとても大切です。特にこれまで,価値観の違いによって否定されたり,傷ついた経験がある人にとっては,「他者と関わること」そのものが恐怖や苦痛になっているかもしれません。
しかし,現実のなかで,価値観が完全に一致する人だけと生きていくのは難しいものです。学校や職場,家族や地域社会など,どこにいても「違う価値観」との出会いは避けられません。だからこそ,その出会いをどう受け止めるかが問われてきます。
他者は自分を知る「鏡」になる
精神分析の視点では,他者との関係は「自分自身のこころを映し出す鏡」でもあります。たとえば,「あの人,どうしても好きになれない」と感じるとき。その反応の裏側には,自分の無意識にある恐れや怒り,あるいは否認している側面が隠れていることがあります。
つまり,自分と異なる価値観をもつ他者に出会うことは,ただのストレスではなく,「自分という存在をより深く知るためのきっかけ」にもなりうるのです。
安心して「違い」に出会える関係が必要
もちろん,どんな違いもすぐに受け入れられるわけではありません。過去に「違う」という理由で傷ついた経験があると,他者の価値観は恐怖の象徴にもなります。だからこそ必要なのは,「違っても否定されない」関係性です。
安心して話せる場,批判されずに聴いてもらえる経験は,「違い」と向き合う勇気を育ててくれます。無理に分かり合おうとしなくても,「違いを前提に,それでも一緒にいられる」関係があるだけで,人は少しずつ心を開いていけるのだと思います。
なぜ今,「違いと向き合う力」が求められる。のか
SNSやリモートワークの普及により,人間関係が急速に変化しているいま。自分と違う価値観をもつ人との関係は避けにくくなっています。
それでも,自分の軸を守りながら他者とどう向き合うか——その問いを持ち続けること自体が,大切な力になっていくのではないでしょうか。
最後に――問いを抱えながら,つながりを探していく
私たちは,違いに戸惑い,ときに恐れながらも,「誰かとつながりたい」と願う存在です。その矛盾のなかにこそ,人間らしさがあるのかもしれません。「どうして価値観の違う人と関わらなきゃいけないのか?」という問いは,他者と向き合い,自分を深めていくプロセスの入り口にもなるのです。
価値観の違いに悩んだとき,無理せず,でも少しずつ「違い」とのつきあい方を見つけていけたら,私たちの人生は深みと豊かさを増していくでしょう。
