人生を豊かにするもの|『水車小屋のネネ』から

誰かに親切にしなきゃ,人生は長く退屈なものですよ――この言葉との出会いは,谷崎潤一郎賞を受賞した津村記久子著『水車小屋のネネ』をAudibleで聴いたときだった。

『水車小屋のネネ』とは?

『水車小屋のネネ』の「ネネ」というのはおしゃべりをする鳥。
本書については,Amazonや出版社のサイトでは,

“誰かに親切にしなきゃ,人生は長く退屈なものですよ”
18歳と8歳の姉妹がたどり着いた町で出会った,しゃべる鳥「ネネ」
ネネに見守られ,変転してゆくいくつもの人生――助け合い支え合う人々の40年を描く長編小説
「毎日新聞」夕刊で話題となった連載小説待望の書籍化!

と紹介されていた。

人々がお互いにそっと見守り,助け合って生きていく様子が描かれた,心穏やかになる素敵な話だったのだが,今回特に印象に残ったのは,姉妹の妹「律」が小学校時代から自分たちを優しく見守ってくれた先生に「どうして自分たちに優しくしてくれたのか」と質問したときに,その先生が答えた言葉,「誰かに親切にしなきゃ,人生は長く退屈なものですよ」というセリフだった。耳から聴いたときにも,この言葉が一番心に残り,メモしていたのだが,あとからWEB上で,この言葉は「帯」にされるほどのキーフレーズだったことを知った。

この言葉を聞いて,ふと,「人の人生を豊かにするものとは何なのだろうか」「人生を退屈ではなく,面白くするもの,意味あるものにするものって何だろうか」と考えた。

人はパンのみにて生きるにあらず

最近,ふとした瞬間に「何かが足りない」と感じることが増えていた。特にここ数週間,疲れのせいか,自分がINPUT不足だという感覚が急激に襲ってきた。なんだか,お腹が空いているような,心に栄養が足りていないような感覚。そして,AudibleやAmazonで,新書や小説を聴きあさり,読み漁り始めた。

そんなときに思い浮かんだのが,「人はパンのみにて生きるにあらず」という言葉だった。

もともとはイエス・キリストが荒野で40日間断食した後,悪魔から「石をパンに変えてみよ」と誘惑された際に,「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るすべての言葉によって生きる」と答えた場面に由来している。この言葉は,「物質的な食べ物(パン)だけではなく、精神的・霊的な糧も必要である」ということを示しており,人には物質的なものだけでなく,知識・信仰・愛・希望など,精神的な支えが必要だという意味を持つ。

小さい頃の自分

この言葉が思い浮かんだのは,単なる偶然ではないような気がした。私は特別社交的なわけではないけれど,人との関わりなしに生きる喜びを見つけるのは難しいとは思う。ただし,今回のINPUT不足の感覚は,人との関わりではなく,知識が枯渇しそうな感覚だった

精神分析家のメラニー・クラインも,知識を求める欲求:「知識愛(epistemophilia)」を人の本能的な衝動として捉えている。そう考えると,私にとって人生を豊かにするものは,知識や物語なのだと気づいた。

そこで,ふと振り返る。小さい頃,私は本が大好きだった。小学校低学年の頃から,キリストやモーツァルト,エジソン,野口英世,ヘレン・ケラーなどの伝記を読んでいたし,中学の頃は宮尾登美子のような女性の一生を描いた本を学校の図書館で次々と借りて読んでいた。物語を読むのが好きで,数週間,数か月の短い間だったかもしれないが,「小説を書く人になりたい」と思ったこともあった。

物語を紡ぐ仕事

そして,気づいた。今の私は,精神分析的心理療法を実践しながら,毎日さまざまな人の話を聴き,その人たちの人生の物語を紡ぐ手助けをしている。まるで,あの頃の「物語を生み出す人になりたい」という夢が,形を変えて叶っているのかも。

精神分析的心理療法とは,頭の中に散らばっているパズルのピースを拾い集め,自分自身が納得できる(時には納得はできないこともあるけれど)人生の物語を紡ぎ,人生に意味を見出す手助けをするものだ。そして,ビオンが言うように,もやもやした感覚や思いを言葉にして,「思考」に変換することが大切で,それを通して人は自分の人生を整理し,意味を見出していく。

そう考えると,「知識」と「物語」は,私の人生にとって大切な要素であり,精神的な糧そのものなのだと再認識した。

最後に

「水車小屋のネネ」をに出てくる律は,さまざまな人に助けられた律は「私はもらった良心でできている」と言えるようになった。クロワッサンのインタビューで著者はこう答えている。

優しいけれど,極端ではない親切。読者から見て『これなら自分にできないことはない』くらいになるよう心がけました。現実の人間って良い人ばかりでもないけど,すごく悪い人もそうはいない。その濃淡の間でできる程度の親切で,人って生きられるものなんです。

この小説を読んで,私が考えたことは,著者が言いたかったことからは,少しそれてしまったかもしれない。
ただ,「読むこと,書くこと,考えること」――そこから得られる気づき,そして人生の意味,それらは,どんなものであれ,必ず私たちの人生を豊かにする
私の,そしてあなたの人生は生きるに値する。

自分は何が好きなのか,何をしたい人なのか…。もし迷っているなら,小さい頃に好きだったこと,夢中になっていたこと,考えていたことを思い出してみてほしい。そこには,きっと今の自分を豊かにするヒントが隠れているから。