真の性倒錯,そしてナルシシズム

R.ケイパーの「精神病理と原始的精神状態」1998(『米国クライン派の臨床』1999/2011所収)では,大人の性倒錯についてのフロイトの誤謬についても扱っていたので,そこから考えたことを記述してみる。

倒錯とは

倒錯とは正常ではない性的行為を指し,オルガズムが得られる対象が異性ではない場合,同性愛や小児性愛,死体愛,性器以外による身体部位によるもの(肛門性交)などがある。またオルガズムを得るためにある種の状況を必要とする場合があり,たとえばフェティシズム,窃視症,露出症,サディズム・マゾキズムなどがある。フロイトやクラフトーエビング,エリスらがそれらを分類した。

多形倒錯と真の倒錯

フロイトは倒錯を正常な乳幼児の原始的性欲が大人の生活において異常,強烈,支配的な形で露出したものに過ぎないとした。つまり,原始的乳幼児性欲を表象する大人に見られる性倒錯は乳幼児の多形倒錯傾向への固着と見なした(「性欲論三篇」)のである。

しかし,ケイパーは「真の倒錯」は多形でも性的なものでもなく,破壊的なものであり,現実の対象との関係や現実の性的関係を破壊するものであると主張している。このBlogでも取り上げた朝井リョウ著『正欲』では蛇口から水がほとばしる様子に性的興奮を感じるといった異常性欲と呼ばれるものについて扱っていたが,ケイパーが言う「真の倒錯」とはこうしたものとはまったく別の次元でとらえるべきなのだろう。たとえば,この夏になって芸能界でやっと明るみに出ることになった少年たちへの性的虐待が少年たちに与えた傷のことを考えれば,その破壊性の激しさは明らかである。

クライン派用語辞典(1989/2014)によれば,もともとクライン自身は倒錯についてはほとんど何も語っていないが,彼女が幼児期に顕著なサディスティックな要素が大人の犯罪に見られるようなサディズムに相当すると指摘しており(「正常な子どもにおける犯罪傾向」1927),クライン派は,倒錯を性愛性を歪曲する衝動である死の本能と見なしている。また,なかでもメルツァー(「こころの性愛状態」1973)は乳幼児の倒錯的性愛性,多形倒錯と大人の倒錯を区別した。前者は自分自身の性愛性,親の性愛性,親への同一化の可能性という謎への探求と考えた。しかし,後者は性愛性を損なおうとする破壊衝動に依拠するとした。この説明と照らし合わせれば,ケイパーもこの系譜を継いでいるのだろう。

真の性倒錯とナルシシズム

自己愛は死の本能から派生する破壊欲動を内に秘めており,その中心となる情緒は羨望である。真の倒錯はこの自己愛的状態のなかで生じるものであり,自他の区別のないところで自分の快が相手の不快になっていることは感知されないのだろう。しかしながら,その破壊衝動には良いものへの羨望が含まれ,必然的に対象を傷つけるものとなる。残念に思えるのだが,自己愛の対象が小児となる場合,この羨望という考え方はより一層分かりやすく明快に思える。良いものだからこそ壊したいという破壊性を要素とするものが羨望であり,この羨望をワークスルーすることが性倒錯の修正に寄与するということは簡単ではあるものの,それはかなり原初的精神状態を扱うことになるため容易いものではなかろう。