マインドフルネスとBionの思考②
マインドフルネスが提唱する自らのありのままの状態を観察し,それに判断を加えることなく,ただ,そこにあるだけ…というのは,beingであったり,Oになる…ということであったりという,Bionのセラピストに求められる状態についての考えと非常に近いのではないかというのが,前回,ここに書いた,マインドフルネスの勉強会に出てみた私の感想だったわけだが…。
精神分析は二人で目指すマインドフルネス
精神分析とマインドフルネスについて考えてみると,精神分析においては,マインドフルネスという状況を,患者がセラピストと共にある経験を通じて,二人で達成する,つまり,両者の関係性の中で目指すという点が特徴的なのではないかと考えた。
まずは,セラピスト
より具体的に言えば,セラピストがまずマインドフルネスな状態になる,つまり「Oになること」を可能な限り目指すのだろう。Oとは,Bionによれば,究極的な現実,絶対的真実,もの自体,形のない無限,空虚である。精神分析の中では,患者の不安や恐れはこれにあたる。これらのものに「なる」こと,つまり,セラピストは,患者の恐れや不安,悩みを「体験的に理解する」。松木先生に従えば「直感する,直截する」(精神分析体験――ビオンの宇宙)のである。
ちなみに,ここで悩みを「知る」とは言ってはいけないわけである。というのも,「知る」のではなく,「なる」のだから。さらに言えば,「体験的に理解する」というのも厳密には正確な表現ではない。ここでは,逆転移的に恐れや不安を体験するということとは,また別のものであろうから。
「Oになる」を説明したいが,そもそも,言葉で説明できるものではないと言われているものを言葉で説明しようというのだから限界がある。
そして,患者がそれを内在化
話を戻すが,セラピストは,自分のありのままの姿を観察することが極めて難しくなっている患者と共にあること,共にセラピーを進めることで,まずは,自分が少しでも「Oになる」という状態に近づこうとする。そして,患者の恐れや不安を体験する。その,「O」になろうとするその機能そのものを,患者が内在化していくということが,精神分析の在り様ではないかと思う。しかし,この過程でセラピストは「解釈」,つまり,言語化しなければならないというところに,その難しさがあるように思う。これについてはまた,別の機会に考えてみたいと思う。
「Oになること」とマインドフルネス
私が行っているものは「精神分析」ではなく,あくまで「精神分析的心理療法」であるということはお断りした上であるのだが,何かしら「Oになること」を患者と共に目指す状態(もちろん,患者は抵抗するものだとしても)というのが,精神分析のありようなのだろうと。すると,マインドフルネスが目指すものと,少なくともBionの考えていた精神分析のありようはかなり近いものなのだろう。