私/私ではない——ウィニコットとゲスの極み乙女

Michael Jacobsの「ドナルド・ウィニコット」を読んでいる。Key Figures in Counselling and Psychotherapyシリーズの一冊で,クラインのものを以前読んだが,このシリーズ,勝手に「一冊で分かる分だけ分かろうシリーズ!」と名付けていて重宝している。原著にあたるのが良いのは当然だが,手っ取り早く全体像を掴むには,舘先生の「ウィニコットを学ぶ」もおすすめ。さて,「ドナルド・ウィニコット」まだ途中だけれど,気になったところをまずひとつピックアップしてみた。

「私」と「私ではない」は大人への第一歩

私/私ではない…について。ウィニコットは,「世界の言語のなかで最も攻撃的で,それゆえ最も危険な言葉は,私はあるI AMという断言の中に見出されることになる」(1986),「早期の段階で,私と私ではない が確立されつつあるとき,個人は,この攻撃的構成要素によっていっそう確実に駆り立てられ,私ではないもの,もしくは外にあると感じられる対象を必要とするようになる」(1975)と書いているが,Jacobsは,これは,健康な攻撃性で,ほとんど生命力そのものであり,攻撃性というよりも,表現を弱めて主張性と呼んでも良いと述べ,これがウィニコットの「この(私はあるという)主張をなしうる段階に到達した者だけが,本当の意味で大人の社会の一員となることができるのである」(1986)という信念に繋がると言っている。

「私」であることはひとつの達成

ここで思い出したのは,ちょっと前の歌だけれど,ゲスの極み乙女の「私以外私じゃないの」の歌詞。私以外私じゃない→not me は私ではない→私だけが私なんだということ。つまり,私と私じゃないもの区別しているわけで,ウィニコット大先生の私/私ではない…が原点なのである。
この歌詞,「私以外私じゃないのよ 当たり前だけどね」って続くのだが,「私以外は私じゃない」っていう感覚は,ウィニコットに言わせれば,それは「当たり前」じゃなくて,ばらばらになりそうな赤ちゃんが,環境としての母親の助けを借りながら,身体や身体の機能を結び付けて,おまけに身体と精神も結び付けて,そうやって統合させていった上で,そして,本当の自己が発達していく中で育つものなんだと。私であることも,ひとつの達成であるわけで,だからこそ,私を大切に生きていくことは大事なんじゃないかって思える。

明日を生きる勇気

そして,ゲスの極み乙女の歌詞に戻ると,この誰も替われず,私以外私じゃないという「私」は,「報われない気持ちも整理して生きていたい」と願い,「今日を取り出して逃げないようにして 明日に投げ込んで」目を開ける,そして,「私はもう怖くないんだ」と,最後,夜更けすぎを待って息を吸い込む。今日を取り出して明日に投げ込む…の正確な意味は分からないが,雰囲気としては「私は逃げない!」ってことだと思う。

ばらばらになりそうな自分と闘って得た「私」,その私を生きるには,やはりどんなに怖くても「怖くないんだ」って自分を奮い立たせて,明日を生きていく,そんな強さを持ちたい,とウィニコットの思考を辿り,ゲスの極み乙女を聴いて,そんな風に思った。

Winnicott, D.W. (1986) Home is Where We Start From: Essays by a Psychoanalyst.
Winnicott, D.W.(1975)Collected Papers: Through Pediatrics to Psycho-Analysis.
マイケル・ジェイコブス(2019)ドナルド・ウィニコット――その理論と臨床から影響と発展まで