村上春樹作品でウィニコットの中間領域を堪能
村上作品との出会い
村上春樹の短編集「一人称単数」が出版された。村上春樹の作品は「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(1985)が最初に読んだ本である。発売後間もない頃に,友人の家の本棚にあったのが目に留まり,初めて読んだ。ボックスに入った初版は新鮮だった。それは随分前に手放してしまい,文庫本で手元においているが,珍しくその後も何度か読んだ本だ。当時は,村上春樹という作家がいることも知らなかった。よく分からなかったけど,文章の独特な雰囲気が気に入って,それまでの短編にも手を伸ばし,これまでおそらくほぼすべての作品を読んでいる。村上作品は,読んでいる間に味わえる独特の何とも言えない雰囲気が堪らない。
私が大学生の時に「ノルウェイの森」が大ヒットして,大学の構内であの赤と緑の本を持って歩いている学生もいた。少し年上だが,今や日本を代表する作家と同時代を生きて,共に歳をとって,リアルタイムに作品を読めることは特権だと感じている。村上氏は大学で東京に上京するまで西宮の夙川辺りに住んでおられたようで,文章にもその辺の地名が出てくることもあって,高校まで西宮に住んでいた私にはなんとなく親近感もある。
言葉の分かる猿ーー「品川猿の告白」
話を戻すと,この短編集は,村上春樹氏のエッセイ,私小説かのように書かれているけれども,リアルとフェイクの境目が白昼夢的に混濁するフィクションである。お気に入りは,東京奇譚集に収録されている「品川猿」の後日談の「品川猿の告白」。「品川猿」自体すっかり忘れていたけれど,今回は,旅館に行って温泉に浸かっていると,人間の言葉が分かる猿(品川猿と呼ばれているんだと)がいて,「背中をお流ししましょうか」と聞いてくる。その猿を誘って,夜,部屋でビールを飲みながら語らうという話。猿は,かつて品川で大学の先生に飼われていた,ずっと人間といたので,人間の女性しか愛せなくなったけれど,思いを遂げられるはずもないので,ある行為によってどうにかその思いを押し殺しているというもの。なんか,不思議で,でもちょっぴり切ない話である。
ウィニコットの中間領域
ところで,ウィニコットの理論(「遊ぶことと現実」1971)では,乳児が現実を認識し受け容れる能力がない状態から,その能力が生まれる状態の間に中間的な状態があると,主張し,その中間的領域が生涯にわたる心的生活において重要な役割を占めることを示唆している。それは,この領域でこそ,人は遊ぶことができ,遊ぶことにおいてのみ人は創造的になることができ,創造的になることができるときにのみ自己を発見できるからだと。さらに,ウィニコットは精神分析は,患者と治療者の遊びの領域が重なるものであるとする。そして,治療者が遊べなければ,患者が遊ぶことにおいて創造的にならないとも述べている。
中間領域を堪能する村上作品
小説というのは,どれもウィニコットの言う「中間領域」において楽しむものだと思うのだが,殊更,村上氏の書く作品は,その要素が色濃いように思う。たとえば,先述の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」はまるで,意識と無意識の世界を行ったり来たりするようなストーリーを中間領域において楽しむものである。
また,最近の「騎士団長殺し」もそうだが,彼の作品には少し不思議な現実的ではないキャラクター,大抵はとても不思議で,時にお茶目なキャラが登場するものが多い(騎士団長の口癖「あらない」は,「ある」の否定形なのだが,在と不在を組み合わせているから不思議)。この非現実的なキャラクターは必ず,当然のように現実の主人公と会話をする。品川猿も同じ。
そこで,なんとなくウィニコットを思い出したのだ。おそらく,村上作品を楽しむには「遊ぶ」ことができる力を相当に必要とする。逆に言えば,村上氏の作品はこの「中間領域」を十二分に堪能できる時間を与えてくれるものなんだと。
村上作品もKindle化
最後に,余談だが,今回の短編集はKindleで読めた。調べてみたらいくつかの短編集はKindle化されていた。大好きな話(100%の女の子に出会うんだけど…の話)が入っている「カンガルー日和」がKindle化されているのを知ってポチってしまった。専門書にスペースを割かざるを得ないので,10冊ほどに限定してある小説のなかの2冊が,省スペースのために以前買いなおした文庫本版の「世界の終り…」なのだが,これもKindle化してくれればありがたい。いつかゆっくり,世界の終りで壁の外に出なかった「僕」が,カフカや1Q84,騎士団長殺し・・・など,他の小説の中でどうなったのかを意識しながら,全体を読み直して見たいが,オンライン授業に追われている私には,あまりにビッグプロジェクトすぎる。