ナルチシズム論――岸田秀「ものぐさ精神分析」(1977)覚書

当時多くの人に影響を与えたと言われる名著として,今更ながら岸田秀のコレクションに手をつけている。その中の「ナルチシズム論」についての覚書

非現実な幻想我の世界から現実我の世界へ

生後一年ほどの乳児には自他の区別や現実と非現実(幻想)の区別がなく,それらは混然一体となって不分明な全体を形成している。この幻想の中にいる非現実的な自己が幻想我,現実と結びついた自己を現実我である。

ナルチシズムとエゴイズム

そして,ナルチシズムとは本来は現実我の保存のために使われるべき自己保存のエネルギーが,逸脱して,幻想我に向けられた状態であると定義する。一方で,自己保存のエネルギーが,現実我の保存に向けられている状態がエゴイズムである。
万能である幻想我と比べて,現実我は無力で惨めて,限られた存在である。
人は本来,ナルチシストであり,発達の結果エゴイストにならざるを得ないだけである。エゴイストには妥協と協調が可能だが,ナルチシストは利害打算無視であるから,厄介である。

幻想我と現実我の葛藤

人間は,幻想我を維持したいのであり,現実我の保存は本来気が進まず,仕方なくやっているだけのことである。

抑鬱感情とは、無限の高みにのぼった幻想我の観点から,現実我を見たときの感情なのだと。自殺は自己保存本能と矛盾せず,ただ保存される自己が幻想自己だというところが特徴である。

幻想我と現実我の葛藤解決方法

自殺:両者の究極の葛藤の解決は,現実我の消滅としての自殺である。

飲酒:酔ってしまうこと。酔っぱらうことで,現実我を忘れ去り,ナルチシズムが高揚し,全能感が高まり,自他の境界がぼやけて世界は無限に開けて,人はみな自分の仲間のように思える。

恋愛:対象を幻想我と同一視して,対象にナルチシズムを投影するような,理想化された対象との恋愛によっても,現実我を忘れ去ることができる。
しかし,それを子ども相手にやれば,子どもは必死に投影された幻想我を実現しようと無理をして心を病む。

事業や学問劇業績,出世や冒険:ヨットで世界一周はナルチシズムを横のレベルで世界に拡散したものであり,ヒマラヤ登頂は縦の方向にナルシシズムを高揚させたもの。

主義,理想,理念への傾倒:「天皇万歳」と言って死ぬことは,現実我の死への恐怖を和らげる。

芸術:芸術は,幻想我を保護し,同時に閉じ込めておくために設けられた禁漁区である。しかし,幻想我は隙を見つけては区域外に飛び出してくるので,芸術ですら,万全の策ではない。

感 想

ここまでが岸田氏のナルチシズム論である。幻想我の局面はクラインの言う妄想分裂ポジションそのものであるし,幻想我と現実我の葛藤の中にいる局面は,まさに抑うつポジションだと考えると,非常に分かりやすいように思う。

葛藤の究極の解決方法として,自殺によって現実我を消滅させてしまうことが挙げられている。死んでしまえば葛藤はなくなるが,それで幻想我を生きられるわけではない。結局,幻想我を「生き続ける」ことは到底無理な話なのだろう。しかし,彼が「私たちが非現実的なものに関心をもつのは,そもそも生まれて初めて知った世界が幻想我の世界だからである」と言うように,一度体験してしまったからには,私たちはその世界への憧憬を捨て去ることもできない。

結果,私たちは「両者の分裂」の中に身を置くしか術はなく,彼の言う通り,「一時的解決法でごまかしながら,四苦八苦して」,私たちは,せいぜい,飲酒や恋愛,芸術といったところで,一時的に,疑似体験として幻想我を生きながら,現実我を生き抜くしかない。しかしそう思うと,現在,コロナ禍でその体験を制限されている飲酒や芸術に触れる機会が激減していることは,心の健康に大きくマイナスだろう。