善ーー反応しない練習⑦
草薙龍瞬氏の「反応しない練習―あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」」を読み終えた。
善とは
本書によれば,「善ーーKusala」とは,善しと思える心境,疑問や葛藤を抜けたスッキリとした心の状態であり,若き日のブッダが目指した方向である。草薙氏は,現実に飲み込まれない心,苦悩を乗り越えた「納得の境地」であるとも説明している。
善と諦念
この説明からいくと,仏教で言う執着を手放して辿り着く「諦念」が指す心の状況もこれに近いのではないかと思う。私は諦念を「真実を理解,受容し,万能的理想への執着を手放して,望んだ状態が手に入らなくても快適でいられること,或いは迷いが去った境地に達すること」と考えている。しかし一方で,ブッダは,心は貪欲や怒り,妄想,苦悩,衰え,喪失,憂いや悲しみ,痛みや煩悩という炎をあげて燃えていると,だから苦しいのだろうし,それらは執着から生じているのだから,それを手放すのがいいんだよ,と教えてくれるわけである(反応しない練習③)。
そして抑うつポジション
さらに,それは分析で言えば,抑うつポジションをワークスルーした状態(つまりシュタイナーの言う後期抑うつポジション)の心の状態とも類似するのではないかと思う。松木邦裕氏は「抑うつポジションと仏教の諦念 」で,クラインの抑うつポジションと諦念に「事実を見つめることに含まれる喪失の悲しみがこころを健康に成熟させる」という共通点があると示唆している。本書の理解による「善」もこれと同じ境地のようである。クラインの理論では,治療は,無意識的空想を言語化し,妄想分裂ポジションにある心を抑うつポジションに至らしめることである。それをどこかで意識しながら臨床活動を20年近くやってきた今だからこそ,以前ならぴんと来なかった,仏教が人生の目指すところであるとするこのあたりの概念が,とてもなじみのあるものと感じる。それは,ここのところビオンの理論が,ところどころ分かる部分がでてきたこととも関連しているかもしれない。しかし,人はこの「手放す」作業を健康な精神生活を送る乳児なら,生後半年で一度やっているというのだから面白い。しかし,クラインが妄想分裂ポジション⇔抑うつポジションは一度クリアーしたら終わりではない,生涯にわたり何度でもこの間を行き来するといったように,人は何かを喪失するたびにここを行ったり来たりするのであり,人生は喪失の連続なのだから,常にここを行ったり来たりするとも言える。
喪の作業
精神分析では,対象喪失(何か大事なものを失くすこと)には喪の作業というプロセスが必要になるとされ,
喪の作業は,1.喪失の感知,2.喪失の拒絶,3.喪失の受け入れ,4.喪失による心の痛み,悲しみを受け入れ,新しい人生の再構築といったプロセスをたどるとされるが,喪失の受け入れには諦念が必要となる。対象喪失となるとぴんと来ないかもしれないが,理想の状態への執着を手放し,現実を受け入れるにもこの喪の作業が必要となるのである。そういえば,松木先生は喪の作業を「喪の哀悼の作業」と呼ぶ。喪失を悼み悲しむことが喪の作業の大切な部分であることを考えるとこの呼び方は丁寧で大切な用語だと思う。話を戻すが,メラニー・クラインは,抑うつポジションに至るには喪の作業が必要となると指摘している。これも善,諦念,抑うつポジションが示す心の状態が近似していることを示しているように思う。
どのように生きるか
さて,ここまでブッダの教えを本書で読んできて,大事なポイントについてこのブログでおさらいをしてきたのだが,どうやら仏教の世界でも,精神分析の世界でも,人が目指す境地とは,
自分を,世界を善しとして生きていくこと,
たとえ様々な執着に苦しむことがあっても,それでも正しい方向(反応しない練習④)を見て,
反応せず,理解し,それで善し!として日々を穏やかに過ごすこと,
それが一番の生き方なのだろう,という結論である。臨床の中では,これをオーダーメイドの形で,その人の状況に合わせて,じっくりとゆっくりと,クライエントに提供しているような気がする。自分の内側を見つめること,自分軸で行くこと,人と比べても意味がないこと,何のために生きているのかではなく,日々の生活を大切にしていくこと,一つひとつのメッセージはもっといっぱいあるし,毎回の面接で形を変えていくけれど,大枠では正しい方向を見て,自分をーーたとえどんな弱く,煩悩に満ちた自分であってもーー,世界をーーどんな理不尽なことが起こるともーー善しとして,みだりに反応せずーーすぐ反応してしまう自分も時には善しとしてそれを認め,正しく理解し,生きていく!それが大事。