突然の雨と舞い散る桜に想う――恵比寿・広尾より

ここ二日,真夏でもないのに突然の雨。そろそろ今年の桜も終わり,黄緑の葉っぱに変わりつつある。オフィスの前の桜も散ってしまうのかもなあなんて想いながら考えてみたことを少し文章にしてみる。

10日の雨は「午後から大気の状態が不安定となり,雨脚が強まり,南よりの風も強まるなど,雷雨を伴う激しい降雨となった」とのことで「夕立」,11日の雨は「短時間で局地的に降る雨」で「通り雨」であったらしい。ちなみに,桜の時期に降る雨は,「桜雨」「桜流し」と言うらしい。

そんな空模様を想いながら,「人生の中にも,夕立や通り雨のような出来事があるな」と思う。受け止める側の気持ちにもよるのかもしれないけれど,生活のなかにも,ちょっと嫌なこと,いや,時にかなり辛いことが,突然やってくる。
そんな雨に風,前に進むのも難しくなるし,「あー,もう嫌だなー」って思うような,そんな出来事。

悔しい思いを抱きながらもなんとかやり過ごしたり,
誰かに助けられて温かい気持ちになったり,
時には雨風が強すぎて,寒くて,じっと静かに動けなくなったりすることもある。

時にはそれが数か月,数年続いたりすることもあるけれど,そうしているうちに,気づけば雨は止んでいる。
明けない夜はない,止まない雨はない・・・この「やがて止む」という自然の摂理に安心を覚える。
というのも,自然のなかで起きることは,人の人生の中で起きることと相似しているから。私たちは宇宙の流れの中に生きている。嫌なことも,辛いこともいつかは過ぎ去る。

私のオフィスには,ビニール傘が数本置いてある。突然の雨に困っているクライエントさんにお渡しできるように。

精神分析的心理療法(サイコセラピー)の時間は,激しい雨に打たれている人に,そっと差し出す傘のような時間とも言える。たとえその傘ですべての濡れを防げなかったとしても,「一緒に雨の中にいる誰かがいる」こと自体が,人を支えることがある。

でも本当は,もっと願っていることがある。
それは,どんな雨に降られても風邪くらいで済むような「こころの体力」――つまり,レジリエンス(回復力)を育てられるような関わりができたら,ということ。

レジリエンスは,「傷つかないこと」ではなく,「傷ついたあとに自分を立て直す力」。
それは生まれ持ったものだけでなく,人との関係や経験の中で育まれるものだと思う。だからこそ,誰かに支えられた記憶や,自分が何とか乗り越えた経験は,その人の中に静かに積み重なっていく。

雨が降るのを止めることはできないけれど,雨に打たれながらも歩けるような力をつけることはできる。

雨上がりの空の下,桜の花びらはまだ枝に残っている。やがては桜の花は散ってしまうだろうけれど,その生命は根へと還り,静かに力を蓄え,来春また美しく咲き誇るだろう。人の心も同じように,休息と再生を経て,新たな季節に花開くのかもしれない――夕立,通り雨が過ぎた夜,そんなことを考えた。

夜桜